主人公が手相鑑定によって問題の解決をしていく小説なのに、肝心の鑑定シーンをほぼほぼカットしてしまうのが、書いていて苦労する事柄のワースト1位だ、というのが前回記事の内容でした。
その詳細について、今回は書いてみたいと思います(前回記事はこちらです)。
第1回記事で、朝の情報番組で流れる占いコーナーの文章も、1対1の手相鑑定場面で使う言葉も、基本的には同じだということを書きました。
『占う側が一種の法則に基づいてコツコツと築き上げた理論を、言葉を選びながらアウトプットしていく作業』という点で、両者は同じ性質のものです。
この“一種の法則に基づいて理論を築き上げる”というのは、非常にロジカルでありながら、こと占いにおいては人間の感情部分に触れることが多いため、きわめて直観的であることも同時に必要という、矛盾だらけの思考過程をたどることが多いと思います。
すべてを理論だけで決めつけられては、依頼人もカタルシスが得られず、鑑定結果は受け入れづらいものとなるでしょう。
感情を無視した技術は、よほど上手にそこが補完できないと、依頼人に不満感を残す可能性が高い。
要はリピート客ができない(私はプロじゃないのでそこを気にしたことはありませんが)ので、どうにもうまくないことになります。
普通、文章化するのは理論化できた事柄になるでしょう。
直観をそのまま文章にしたら、相当ヤバいやつと思われるのがオチです。
実際のセッションでは、丹念に理論と直観をつなげて「会話」の形にし、説明も含めて言葉数を多くすることで、理論と直観の混在する鑑定を成立させ、依頼人の感情面に配慮したクオリティに仕上げます。
無口な占い師に出会った経験のある人はあまりいないと思いますが、どうしてもそうなってしまうはずなのです。
言葉数は多くならざるを得ないですから。
鑑定を受けている側の人は、占い師が繰り出すやたら多い言葉数(要はおしゃべり)にさらされながらも、その内容は自分のことが語られているので元々関心が高いし、どんな話も自分の人生のことなので、たとえ平坦なストーリーでも起伏を作りながらテンションを上げて聞くことでしょう。
しかし、鑑定をしている側では、その人の平坦なストーリーは、ただただ平坦です。
そこに様々な要素を絡ませ、過去現在未来を話しますが、技術的には「手のひらに書いてあることを読んでいるだけ」という状態になることもあります。
「鑑定シーンを描写する」とは、それを文章化することになります。
やたら長いだけで、依頼人以外には他人事です。
おまけに私は「企業を擬人化する」というあり得ない設定にしているから、読んだ人が自分に置き換えて想像する媒体にはなりようがない。
頭の中ではしっかり鑑定しつつも、小説としては泣く泣くそこをバッサリ切らざるを得ない。
やはり、ここが一番やるせないところかもしれません。
ちなみに、占いの本とかを読んで「自分もやってみよう」と、家族や友人の手を(手相ならばですが)見て、本を頼りに鑑定をやってみた経験のある人はどれくらいいるでしょう?
うまくいきましたか?
私の影響なのかどうか、高校生当時、同級生で占いをやろうとする友人が何人かいて、あちこちのクラスに「俺、○○占いができる」と標榜するヤツが出たり、そこまでじゃなくとも私のマネで手相を見ようとする連中もずいぶん居ました。
しかし、どれもうまくいかなかったようで、すぐに鳴りをひそめてしまいました。
この理由について、思い当たることはありますか?
以下、私なりの考えです。
読まれる実用の文章(たとえばノウハウ本)というのは普通、ロジカルなところだけを抜き出して構成されているはずです。
だから、理屈では理解しやすいし、読めば何となく頭に入り、わかったような気にもなります
しかし、知識としては面白くても、いざそれを自分や他人に当てはめようとすると、たちまちあやふやになってしまうのは、やはり実践の中には随所に『直感』が存在し、そこを理屈をつながないとどうにもならない側面が濃厚にあるからです。
結局、トークが保てなくなって、そのコミュニケーションをギブアップしてしまう。
「英語で話そうとしてくじけてしまう」というのによく似ています。
英語だと、さらにそこから「英語は苦手、英語はムリ」と拒絶する道が開かれていますが、要はコミュニケーションが成功した体験が積めないことが根本にあります。
このあたりのことは、本編の中でも触れていますが、英語学習のコツも占い学習のコツも、コミュニケーションの場数によって左右されるようです。
占いの本とかで得た知識を使って誰かを鑑定しようとしたとき、トークの文章が続かなくなる大きな要因は、理屈と理屈をつなぐ直観の部分が欠落しているからだと思います。
そこはどうしても自前で補わなくてはならない。
最初はこじつけで何とか対処するが、やがては収拾がつかなくなってやめてしまう人は多いのではないでしょうか?
だから「こういう点に着眼し、こんな順番で思考し、既定の条件を当てはめると、鑑定は成立する」ということを小説に書くことで、「データベースにはこういう効果を想定し、どこに目を付けてどういう情報を引き出すか」ということへの置き換えができればと考えていた私も、「理論と直観のつなぎ目」がどうしても伝えづらくて、鑑定シーンをカットするしかなかった、という結果を招いてしまったのです。