同僚時代の項羽と劉邦は、秦帝国を滅ぼす実戦部隊を率いて本拠地を出発しました。
主力軍を率いる将軍・項羽は、秦軍最強の章邯(しょうかん)将軍が指揮する本体をくだして首都・咸陽(かんよう)を陥とすべく、長駆、関中へ向かいます。
一方の劉邦は別働軍を率いて項羽軍との協同作戦を任されますが、敵本軍との戦闘は予定されないため、兵数は少なく、内容的にも雑軍と言うべきでした。
各地に配備された秦の地方軍と戦うにしても、戦力は充分とは言えず、陽動作戦のようにかき乱しながら、同様に関中を目指します。
優秀な項羽には優れた軍勢が配置され、軍旅の途上では華々しい戦果(章邯軍の撃破)を期待されます。
容易なことではないし、敗死する危険が高いのですが、これをやり遂げたらその功績は並びないものになる。
ハイリスク・ハイリターンの仕事を任されて、勝負を下りるか下りないかの選択に迫られるのは、エリートビジネスパーソンの宿命ということなのかもしれません。
勝負を下りたら、そのあたりの立ち回りをよほどうまくやらないと、後の出世に差し支えることは確実です。
それだけでなく、同僚にイチかバチかのベンチャー精神満々なライバルがいて、ソイツが無謀にも手を上げて、もしも上手くし遂げてしまったら、せっかく築いてきた自らの地位が脅かされることになる。
エリートって、そうやって勝ち抜いていくのでしょうね。
しかし、イメージトレーニングの分野で著名な西田文郎さんが仰るには、ビジネスの世界で“勝者”と言われるのは、スポーツで勝者になるのと比べたら簡単だということです。
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なぜなら、100番程度の実力ではプロにさえなれない種目もあるスポーツの世界に対し、ビジネスなら「日本で1000番目のビジネスマン」なら“大成功者”になれるからだそうです。
項羽のこの場合は、「章邯に勝つのか? 負けるのか?」の格闘技に最大の争点がありつつ、その背後にもうひとつ「劉邦とどっちが早いのか?」という徒競走があります。
後者はなんだかちょっと間抜けな印象を受けますが、しかしこの勝者のインセンティブのほうが、ツラい格闘技の勝者に与えられるものより大きい気さえします。
彼らは自分たちが生きていくためのシェアの奪い合いをしているという点で、ビジネスの中にいると言えます。
最後まで残った自分のシェアが上位に入ればひとまず「勝ち」ということもできます。
しかし、そのビジネスの中の一局面として、格闘技と徒競走というスポーツへの挑戦を余儀なくされたからには、勝者でなければ敗者ということになってしまう。
「あと10㎞まで行けてたんだよなぁー」
「いいじゃん。次はあの中盤でのもたつきのトコ、改善していこうよ」
そんな反省会をのんきにしていられるような、甘っちょろいものではない。
ハイリスク、ハイリターンは、最強の章邯将軍との命がけの決戦だけではなく、劉邦との駆けっこにも漏れなく付随していた条件でした。
「劉邦アイツよお、ズルくね? アイツ別にさ、バトルスルーして行っても勝ちじゃん? 俺だけなんでガチ勝負マストで、おいしいトコ無しのリスク負わなきゃなんないのチョームカつく劉邦と懐王」
いいトコ取りできそうな劉邦に焦りを感じるほど、『先に関中に入ったら関中王にする』と宣言した主君(上司)・懐王に、心の奥で恨みを抱く。
「イイだろお前優秀なんだから」
“優秀”と言われて「嬉しいとき」と「憤るとき」があるとすれば、これは完全に後者です。
“優秀”という言葉が組織内で、特に上司が使ってくる時は、そこに「上司の都合」という要素が絡んでいることに注意しなければなりません。
ビジネスの世界では、自分に関係のない有能さに、わざわざ言葉に出してまで称賛することは無い。
誰の仕事にも関係しない/関心も持たれないうちは、能力を持っていても、使いこなしていても、ただの自己満足に留まることがあります。
うぬぼれが役に立たないのは、本当に役に立たないのではなく、競争の場に出ていないので評価の対象になっていないからです。
評価の対象にさえならないものは、ビジネスの世界でいえば邪魔なもの。役に立たないものと評されても仕方ない。
項羽はやがて懐王が邪魔になって抹殺するほど、この時期にはやるせない感情を抱いていたようですが、認められるだけの能力を持ち、エリート意識が強かったことの裏返しだったと言えそうです。
ハイリスク・ハイリターンは、事象に比例した感情の浮沈も引き起こしますので、単に成績が優秀なだけでは、勤めてからの「エリートの座」が、本当に幸せなものなのかどうかは何とも言えないのですね。