【感情会計】善意と悪意のバランスシート

善と悪の差し引き感情=幸福度

マインドマップ習得の決め手は「小学生」

マインドマップを使っている人は、どれくらいいるのでしょうか?

 

私は「MindManager(マインドマネージャー)」という専用ツールを10年以上使い続けていますが、なかなか周囲にユーザーはいません。

 

「難しいことは力まないと覚えられない」は疑わしい

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 私が使い始めた当初と違い、今はマインドマップのソフトや教材もかなりの点数がありますが、昔は関連書籍もほとんどなく、当時有名だったのは、考案者トニー・ブザン著の「ザ・マインドマップ」くらいです。

 


ザ・マインドマップ

ただし、買ってはみたものの、この本は難しすぎる。

 

私が学びたかったのは「使い方」であって「理論」ではない。

 

手引書として、もっと適切なものがないか?

 

そう思って探していたところ、これ以上ないというほどピッタリの本を発見し、結局、この本だけでマインドマップの扱い方を習得して今日に至ります。

 

 

「for kids」というのがいいですね。

 

大人に提供しているのと全く同じものを、子供向けに作るのは難しい。

 

この本は「ザ・マインドマップ」よりもサイズは大型ですが、とても薄い本でお手軽です。

そして絵がいっぱい(喜)

 

小学校の教科ごとに図解で例が示されているので、得意なものを見るとピンとくるし、得意じゃなくてもスンナリと頭に入りやすい。

 

頭の中でストーリーが自然に動き出す感じです。

 

ということは、本の厚みや文字数なんかとは無関係に『情報量が多い』ということになる。

 

ちなみにGoogleでも「MindMeister」というソフトが提供されています。

Googleアカウントがあればすぐに試せるので、是非体験してみて頂きたいです。

www.mindmeister.com

 

「理解しているが、使えない」への対策

マインドマップを使い始めて最初につまづくのは「頭では理解したが、いざ使おうとすると意外に手が動かない」という点ではないかと思います。

 

それに対し有効だったのが、先ほどの「勉強が楽しくなるノート術」なのですが、それをベースにちょっとだけ実践してみたいと思います。

 あまり有名でない歴史の人物を描画してみる

私が好きな幕末の偉人のひとり・大村益次郎のことを、マインドマップで簡単に描画してみます。

 

が、その前に、私が捉えている大村益次郎の概略を『文章で記述』し、その思考過程をマップで見てみるという流れで書いてみます。

 大村益次郎の略歴

 大村益次郎(村田良庵)とは、長州藩の村医から武士に転身しました。

封建制の中では極めて異例な出世です。

 

しかもそれだけでなく、江戸幕府を倒した戊辰戦争では総司令官として、武士たちを使役する立場になりました。

 

彼は若い頃に蘭学を学びました。

大阪の適塾という有名な私塾で、師匠の緒方洪庵について蘭方医学の教えを受けます。

やがてその優秀さでスカウトされて武士になる運命につながります。

宇和島藩での働き

良庵をスカウトしたのは、開明家で名高い伊達宗城(だてむねなり)が率いる宇和島藩です。

 

良庵は宇和島で翻訳家として兵書を訳しつつ、砲台や軍艦建造に力を尽くします。

この頃に「蔵六」と改名します。

(司馬遼太郎さんの「花神」では物語全編を通じてこの名前が用いられている)

 

司馬さんがこの作品を書こうと思ったきっかけであるシーボルト・イネとは、この宇和島の頃に師弟関係を築きます。

 

宗城の参勤交代にお供して江戸へ出た蔵六は、ここでも才能を買われて幕府の教授機関に雇われます。

 

教育への情熱を持つ蔵六は、自身も私塾を開くなど、活動を活発にします。

教育者として充実した日々を過ごしますが、ここで彼の故郷である長州藩からのスカウトを受け、転籍を果たします。

 

故郷である長州藩へ仕える

故郷では百姓医者だった蔵六ですが、すでに宇和島藩の手で武士階級に引き上げられていたことから、幸運にもその処遇が継続します。

 

また、彼を見つけた桂小五郎の引き立てがものを言います。

新参にもかかわらず、蔵六は藩内の軍事を一変させる改革を手掛けていくことになります。

 

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TECHDさんによる写真ACからの写真

 

当時は長州征伐が行われているころで、いつ戦端が開かれるかわからない張り詰めた時期。

軍制の一新や、海外の強力な武器の調達と調練は急務です。

 

幕府との戦い

徳川幕府は長州藩を討つため、諸藩に動員命令を下しています。

当然、やってくるのは大軍であることが予想される。

 

長州藩が単独で幕府の大軍と戦うためには、海外の近代的な戦闘術を採り入れねばならない。

 

蔵六は、4方向から攻めてくる幕軍に対する手当をそつなく調え、自身も1方面の指揮官として前線に出陣。

敵の名城を陥落させる武功もあげ、戦いは長州藩が勝ちます。

蔵六も、いよいよ歴史の大転換へと駒を進めることになりました。

 

革命軍の司令官へ 

新政府軍の一員となった長州藩は、薩摩藩をはじめとする味方の諸藩と連合して旧幕軍と戦うことになります。

この寄り合い所帯の中で、全軍の司令官に蔵六が抜擢されます。

 

教育には熱心だったが、それ以外の人間関係に無頓着だった蔵六は、維新志士の筆頭だった西郷隆盛にも追従しなかった。

 

このことで薩摩藩の海江田信義などと強い軋轢を生んでしまい、結果的にこれが命取りになります。

 

いわくつきの京都で倒れ、学び舎があった大阪で逝く

戊辰戦争勝利後に、今度は日本国家の兵制を調えるべく精力的に活動する蔵六。

そんな最中、刺客に襲われて恩師・緒方洪庵に教えを受けた大阪で息を引き取ります。

 

襲われたのは京都ですが、ここの治安維持に任じていたのはほかでもない、蔵六と最も激しく衝突した海江田信義でした。

 

しかも海江田には襲った刺客たちとの付き合いがあったため、この事件は様々な疑惑を生みました。

 

薩摩藩との確執は生前も死後も続く 

西郷隆盛とあまり良い関係ではなかった蔵六ですが、戊辰戦争後の兵制論争では大久保利通と真っ向から対立する主張を繰り広げた挙句、さいごは退けられてしまいます。

(その後日本の軍制は紆余曲折のうえ、結局は蔵六の主張した方向へ変わっていきました)

 

蔵六は、彼が目指した日本の軍制を否定した薩摩藩が、維新が成った日本にひと悶着を起こすことを予見したという見方があります。

 

蔵六は生前、政権は江戸へ遷都したというのに、主な軍事拠点を京阪に集めた

これは後の西南戦争を見越していたとする考えが現在でも多くあり、司馬さんの「花神」では、蔵六と西郷は歴史的に相討ちをしたと表現しています。

 

享年は46歳。

元来粗食で質素な生活を心がけ、襲撃を受ける直前まで活発に行動していたことから、事件がなければその後もまだまだ活躍したことでしょうが、残念なことになったものです。

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ジルバーナーさんによる写真ACからの写真

 

長々とした文章記述は頭に入りづらい

さて、いろいろ書いてきましたが、この文章だけを読んでも大村益次郎のイメージはしづらいですよね。

 

特に、歴史に興味が無い人にとっては、ほとんど記憶にとどめないでしょう。

 

書く側にとっても、好き放題に書くならともかく、もしも「他人が読んでわかりやすい文章を書きなさい」と言われたら、まとめるのも一苦労でしょう。

 

そんなときに、マインドマップをどう活かすか?

それを、次回やってみたいと思います。

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