「責任は私にある」というフレーズが最も力を発するのは、仲間内の集まりの中でしょう。
政治的なことで何かと取り沙汰されていますが、これは私たちの周りのビジネス現場などでも非常に良く見られることだと思うので少し書いてみます。
この発言をすると、周囲の数人からため息とも歓声ともつかぬ「オォーッ!」という声が湧き上がる。
その時、発言者を持ち上げるシンパ何人かが 拍手を送ると、たちまち同調者による満場の喝采となる。
発言者はご満悦になり、出席者もなんだかそれで事が成ったようにカタがついてしまったりする。
責任を果たすべき相手は「内輪の仲間」じゃなく『外部顧客』
「責任は私にある」のフレーズの目的が、仲間内でのパフォーマンスで済むものか、外部を相手に担保すべきものかどうかの判断は、慎重に行わなければなりません。
当然ですが、これは相手かまわず使って良いフレーズではないからです。
仲間じゃない人たちに対し「責任は私にある」と言った場合のリアクションは
「ふーん」「当たり前じゃん」「あーそう、あんたね?」
えらい違いです。
聴衆の表情をうかがって、仲間たちの前でしゃべったときとの違和感をおぼえたとき、「でもきっと、何かが響いているはず」と錯覚を起こしてしまうようだとかなりマズイ。
(違和感にすら気づかないようだとさらにマズイ)
冷めた反応をする聴衆の頭にあるのは
「それで、あなたがどうするって言いたいの? 次の行動の指針と体制の準備は?」
間違っても「オォーッ!」なんて言わないし、拍手も起きない。
「責任があると言ったのだから、結果を出せ」という、部外者ならではの距離感を保ったまま、履行を求めてくるのが普通でしょう。
ストロークの流れとして、そうなるはず。
その前に金銭授受が発生していたら、払っている側は責任問題には特に敏感になります。
拍手喝采によって場の空気がひとつのものになるといった「お約束」が、ここでは発動しない。
稼がないと生きていけない自由競争の鉄則の中で生きている一般庶民にとって「サービスにお金を払った以上、対価を求める」ということは、自分自身も「対価を受けたら責任を果たすのが当たり前」という感覚が、まるで呼吸のように自然なことだからでしょう。
「じゃ、そういうことで」というフレーズを現場に投げつけて去る羽目になる
会社の中などで、こういった勘違いのパフォーマンスが空回りしている光景を見たことのある方は、結構いるのではないでしょうか?
私もあります。
残念なことに、仲間内で「責任は俺にあるから」と発言するときには、自分を鼓舞し、自分に酔ってしまっていること が多い(慣れていないと大抵そうなる)。
だからその “感動の決起集会” 終了後に具体案を出しても、話を聞くどころか、鷹揚に手を振って拒絶されることがあります 。
困ったことに、その後は依怙地になるのか、耳をふさいで遠ざけられてしまう。
結局、真に向き合うべき相手(部外者)に一蹴されてしまい、逆に厄介になったことがありました。
最終的に後始末を押し付けられるとき、彼らから現場の我々に投げられるフレーズは
「じゃ、そういうことで」
ゆえに、私は「じゃ、そういうことで」というセンテンスが好きではない。
末端の現場では、具体的な形を求められます。
物事のカタをつけるためには手を動かして作業完結させるか、電話を切ってよいところまで納得を引き出して終話させることがほとんどで、そこで「そういうこと」という抽象的な指示を出されると、個々人のアドリブで処理せざるを得ない。
アドリブで処理するとナレッジ扱いされ「アイツは自分だけでスキルを抱え込む」などと、あらぬ嫌疑を掛けられ ることがあります。
「責任は私にある」からの「じゃ、そういうことで」のコラボは、仲間じゃない人から見ると、どうしても求心力を感 じられないのです。