感情会計-善意と悪意のバランスシート

財務諸表から逆算で人心を読むテクニック

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「叱る」と「威張る」を混同すると、上司はますます叱れない

叱れない上司が悪者みたいに言われることもありますが、逆に「叱る」という行為自体に悪感情を抱き、叱ることができる上司を嫌う人もいます。

 

どちらを選択しても悪く言われるリスクを背負うのだから、上司は難儀なものです。

 

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 叱るのは【戦術】、効果的コミュニケーションの場作りは【戦略】

気楽なのは「叱るようなことが起こらない職場」に勤めること。

 

一歩進んで「叱るようなことを発生させない職場づくり」というのもありますが、そこまでやると上層部とひと悶着起こして上からも悪者扱いされる危険があります。

 

それだったら、部下からの悪感情に注意を払っているほうが楽だからと、ひたすらメンバーの顔色を窺う人のほうが多いでしょう。それはそれでジリ貧だと思うのですが…

 

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結局「叱る」という善悪定かならぬものが、部下を持つとともに自分の責務として頭をもたげてくる。

 

そのことに気が重いと感じる人が多く、行動は鈍重になりがち。

諍いどころか討論すら避ける傾向に陥り、コミュニケーション不全が起きて逆に職場がギクシャクしてしまい、それにつれて生産性も下がる。

 

経営者はそこに注意を払う必要があります。

 

繰返し叱っていれば良いだけなら、それは“戦術”の領域ですが、効果的なコミュニケーションが行われる職場作り“戦略の領域”であり、そこを担当するのは経営陣の役目だからです。

 

「威張り」をピンポイントで嫌った中学生

私の中学時代に、特に親しくしていた1年上の先輩で、こう言う人がいました。

「俺は、威張るのも威張られるのも嫌いなんだ」

 

私が所属した陸上部の実力者で、顧問からは信頼され、先輩にも後輩にも評判の良かった人です。

 

同級生の反対勢力メンバーに職員駐車場に呼び出され闘争に及んだり、無免許でバイクに乗ったりするといった側面もありましたが、その程度は愛嬌というべきだったでしょう。

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ちなみに、私が通っていた中学では、男子は皆「先輩を呼ぶときは『君づけ』か『あだ名』でOK」でした。

 

コミュニケーションの基礎とも言える“相手の呼び方”において、それほどフランクな習慣が浸透していたので、もともと「先輩だから威張る」という風潮があまり見られない学校でしたが、一応、上級生と下級生にはそれなりの格差がありました。

 

平等主義で実力のある人が行う「叱り」には、悪感情を抱けない

緩やかな上下関係ながらも、やはり社会通念で「先輩は上位の存在」という自然な空気はありましたが、親しかったその先輩は明らかに私たち後輩を『友達扱い』していました。

 

部活内ではグループ長だったので、皆を率いつつ練習を行い、大会でも区内トップクラスの成績をマークするなど、組織の上位者として押さえるところは押さえているのですが、普段の態度に階級差を作る雰囲気は全くなかった。

 

しかしこの先輩は上述のとおり「ワル」であり、ケンカ慣れしていて結構強い人だったのですが、私などは休み時間に2年生のフロアに行ってその人を見つけると飛び掛かり、引きずり倒してジャレつくという、かなり過激なウザがらみをする面倒な後輩だったのですが、そのことで怒られたことはありません。

 

ジャレた流れで殴られたり蹴られたりすることはあれど、当然私もやり返しているので、イーブンだったと言えます(しかし今考えるととんでもない後輩だったなぁ…)。

 

めったに怒らない人でしたが、一度だけそれがありました。

 

私たちが部活で気を抜いて練習している様子が目に余ったとき、全員を並ばせて叱り飛ばしました。

無遠慮な私でさえ、ひたすらかしこまるしかない迫力でした。

 

場は一瞬で引き締まり、その後は雰囲気がガラリと変わり、ダレた感じは一掃されました。

正にわかりやすく叱られたわけですが、このとき誰も悪感情を抱くメンバーはいなかった。

 

この時の記憶を辿ってみて思うのが「叱る」と「威張る」は全く別物だということです。

 

「教育」と「暴力」の区別がつかない境遇が元凶

叱る/叱られる、という言葉に悪感情を抱く人は、そもそもこの二つの区別のできない人から嫌な仕打ちを受け、そのことで傷ついた経験があるのではないかと思います。

 

威張りグセのついた人が叱るのは、本人がどう思っているかはともかく、受けている側には『横暴な挑発』や『脅迫』に映ることがある。

 

声音などの調子が強くなることが、単に「普段の態度の延長」と受け取られるからでしょう。

 

“叱る(教育的指導)へ、モードが変わった”というふうには受け取りづらい。

 

「教育すること」と「権威で押さえつけること」は、傍から冷静に見れば明らかに別物なのですが、自身が現場に立っている場合、その切り分けは非常に難しくなります。

 

我が身に直接危険が及ぶ状況では、上位者からの圧力を冷静に判断する余地が極度に狭くなるのが人情です。

 

「叱られている(教育を受けている)」ことが、正しく認識できなくなることがあります。

 

一方「上司は上位者」という社会通念が染みついているので、暴力的な威圧にすぎないことを「叱られる」と誤認してもおかしくありません。

 

そのような境遇で過ごしてきた経験を持つ人は「叱る上司」という存在を、正しく評価できていない可能性が高い。

 

そうなると今度は、自分が上司側に立った時に行うべき教育を『暴力』と混同して叱れなくなることがあり得るのです。