こんにちは。感情会計エモアカの四緑文鳥です。
さすがに、今に至ってまだ「コロナなんて風邪と同じだ」なんて積極的に公言する人は少なくなったと思いますが、金曜日の帰りの電車の混み具合や、駅の人通りなんかはコロナ前との差異を見つけるのが困難なほどの状況でした。
かくいう私も、会社がリモートを認めないため出社を余儀なくされていて、そんな街並みを構成する一員として、帰宅の途につきました。
「言行一致」と「言行不一致」の切り替え
コロナを「風邪と一緒」と明確に認識して行動している人は少ないかもしれません。
仮にそう認識していても、世間一般のTPOに合わせてマスクや消毒、人との距離をとるなど「気持ちは入っていないけれど行動はしている」人は、まだ良いと思える。
怖いのは、「コロナは風邪と一緒」の考えと行動が一致している人。
ごく一部だとは思うけど、そういう人とはお近づきになりたくない。
テントウムシとGを「同じ」というヤツからの食事の誘いにのれるか?
食事中のテーブルの上に、迷い込んだ小さなテントウムシを見ても驚かないが、同じ場所にGがいたら飛び上がるという人は多いでしょう。(テントウムシでも ”ギャッ!” になる人も絶対いると思いますが)
そんなとき「どっちも昆虫、昆虫だよ」と言って平然と食べ続けている人の家には、次の食事の招待を受けても、もう行く気にはならない。
一時期世間を騒がせた「山手線にマスク無しで乗る」という行為を、参加者を募ってまでしようとした人間がいましたが、アレなどはもはや「自宅で観賞用にGを育てているヤツ」と同義に思え、同席どころか近づくことさえ嫌です。
医学的な意味での正解はわからないので、将来的に「実は風邪と同じ」という結論に達することが仮にあったとしても、それが不確実な現在の状況では、理屈が正しいからということよりも、どう感じてしまうかのほうがより強力な説得力を持つのではと思います。
むやみと他人に恐怖や不安を感じさせることなら、避けた方が無難でしょう。
対象が見えていないと、理知的判断は弱まりやすい
ウイルスが目に見えないために、「コロナは風邪じゃない」認識の人と同じ行動をとってしまう人はかなり多いと思う。
自分が好きなこととか、何かに夢中になっているときなどは特にそうでしょう。
中でも「人と接するとき」こそ、自分の気持ちが昂ぶり易いはず。
なんだかんだ言っても、やはり人間は感情の生き物。
そして感情は、他者と接することで増幅したり、進化したりします。
そしてそれがまた新たな感情を生み、その繰り返しで人生ができているといっても過言ではありません。
パーソナルな行動による感情 < ソーシャルな接点による感情
という図式は明らかだと思います。
酒が入ったらコロナのインパクトは「G以下」
相手がいるからこそソーシャルディスタンスを詰め、大きな声でしゃべり、マスク越しの会話がもどかしいと感じてしまう。
そんなときこそ、ついつい「コロナは風邪と一緒」という人間と同じ行動をとってしまうことがあり得る。
さらに、理性が緩む時間帯ではそれが倍加します。
端的に言えばお酒の時間。
お酒が好きな人は、そもそも「お酒」というものに対して感情が昂ぶるでしょう。
ひとりで静かに飲む人なら、自分の中で静かに感情の波を楽しむことも可能でしょうし、しかも「家呑み」ならもっと安全だと思います。
でも、酒や料理はお金を払って提供してもらえる場所で(つまり準備や片づけに気を遣う考えがない環境で)、気に入った仲間を相手にアルコール摂取したら、「好きなもの」と「ソーシャルな交歓」が相乗効果で感情を高めるのは必定です。
さすがにそこへの同席は避けたい。
「テントウムシとGが一緒」レベルに盛り上がってしまう酔っ払いなんかも、そこには存在するかもしれないので・・