「経済的に厳しい状況に陥っているから、一日も早くGOTOを再開してほしい」
「GOTOが無いと景気が良くならない」
「企業業績回復のカギはGOTOだ」
私はGOTO以外の経済施策を、官僚が考えつかないとは思っていません。
グングン冷え込む未曽有の経済危機からの起死回生策ですから、自分たち以外の考えも得るべく各界に諮問したり、発信情報を参考にしたりもしたでしょう。
経済学者や一流コンサル、市井に通じた実務家たちが、そろいもそろってたった一つのプランしか持たないとは到底思えません。
もはや“消費”する余裕は無い
この局面で切れるカードはたった一つ「GOTOだけだ!」
・・なんて、経済界の理論家や実践家があらゆる知恵を絞って得た結論がこれだけなはずがない。
日本経済をそんなチョロイ連中が仕切っていたとしたら、とっくの昔にこの国はデフォルトしているでしょう。
一応、GOTO前に国内消費を下支えする手は打った。
それで国民の消費が加速すれば、危機的状況は和らぐだろうと政府は期待したでしょう。
でもそうはならなかった。
国民がケチケチと貯金を溜め込んだせいだと、どっかの財務大臣が見当違いなことを言っていましたが、そんなわけはありません。
そんな都合よく誰もが豪勢に消費できる時代なんて、とっくに終わっています。
そもそも“消費”という言葉の意味が、高度成長期とは全く違ってしまっているのではないか?
私はそう考えています。
この局面での“自助”とは「消費しないこと」
個人の消費に営利企業の「保守主義の原則」が適用されるようになると、経済力はグングン下がっていくと思います。
別に個々人に対し「保守主義でいきなさい」という明確な指示は出ていません。
国は助けてくれないので『自助のかたち』が必然的にそうなってくるということです。
企業の支出は基本的に「投資」
税理士試験の財務諸表論を勉強していると「費用配分の原則」という言葉にぶつかります。
ここでいう費用配分とは、資産の取得額を、使用する期間にわたって費用計上していくことです。
仕入れた商品がその月に売れたら、仕入価格はその月の費用として売上に対応させます。
買った資産を、その効果が及ぶ期間で償却していくという意味で「費用収益対応の原則」として説明されることもあります。
会社が設備投資を手控える理由
一般的に固定資産は、購入時は資産価格分のキャッシュが出て行きますが、それが売上収益に化けていくまでには時間がかかる。
費用化するまでの間、減価償却額を除いた残額が「資産」として計上され続けるわけですね。
つまり「お金は投資したけど、まだ未回収」という状態です。
投資を回収するまではまだ先が長いし、そもそも確実に回収できる保証もないというリスク要因でもある。
おまけに、購入のための資金を借り入れしていたら、回収の成功/失敗を問わず金利負担が生じます。
資産額の大きさはその会社の規模を表すという一面もあるので、傍から見て金額だけで判断するとリッチな印象を受けることもありますが、それが固定資産の場合は少し気をつけて見る必要がある。
会社が在庫を持ちたがらない理由
財務諸表だけでは見て取れないが、商品として仕入れた棚卸資産で長期在庫になっているものも「お金は投資したけど、まだ未回収」という性質を持っているので、これもまたリスク要因です。
「できるかぎり在庫は持ちたくない」という会社がほとんどだと思います。
陳腐化や劣化などで損失計上の引き金になる可能性があるので、「投資の回収に機能不全を起こす危険要因」という言い方もできるでしょう。
設備投資と同じく、資産計上しなければならないものというのは、言い方を変えれば回転が悪い。
持たないに越したことはないということになります。
これらのことは、会社が生きていくための必須事項で、常に生存の危機にさらされている中で採られている「保守主義の原則」です。
生活費すべてが「経営の糧」にならないと生命に差し支えるのが企業
基本的に会社がする支出は、会社が誕生したときの資本金が象徴するように、すべてが「投資」といえるでしょう。
原価算入されない公共料金まで「投資」と呼ぶのは違和感があるかもしれないけれど、営利企業では生活のすべてを業績に直結させていかねばならないため、生活費もまた投資といってよいと思います。
このため、営利企業の支出は常に「期間損益」と「費用収益の対応」を考えながらなされる『投資』というのが基本的な考え方になると思うのです。
個人の経済活動には「消費」と「投資」がある
一方、個人が行う“消費”は、当然ですが投資とは別のものです。
個人が投資をする場合、消費とは財布を分けて行うのが普通で、余裕資金を投資に回していると思います。
貯蓄ができる人とできない人の差
投資をしたいから、少しまとまった額にするために、生活を工夫して投資資金をねん出しようとする人が多いと思いますが、それは「消費と投資は別物」と知っているからでもあります。
「個人の支出には『消費』と『投資』がある」と明確に分けられる人が、経済的な基盤をしっかり築けるのは当然で、いわば「お金に色がついて見える」と言えるのではないでしょうか?
ただし、消費と投資の見分けがついても、収入が少なくてカツカツな人だとタネ銭ができない
「手持ちの資産を運用して殖やそう」という前向きな意味でするのが、いわゆる純粋な投資ですが、タネ銭すらままならないような状況の人には、そんなことは許されません。
投資しかできなくなるほど追い詰められるとお金はたまらない
カツカツな生活が高じて追い詰められた人は、当然手元資金を運用するような「純粋な投資」はできない。
それだけでなく、もはや消費すらできません。
「消費して終わり」という使い方は、贅沢の極みに思えてくる。
すべては「体が資本」というスタイルの投資活動になってくるからです。
経営が苦しい企業の活動に似てきてしまうのです。
電気代を払う理由は「快適に過ごすこと」などではなく、冬は凍えず、夏は熱中症を避け、照明をつけて家具や屋内設備を効果的に利用することで、明日働く体力を維持するための投資。
体力は何よりも先に確保しなければならない。
それですべてのことが回るからです。
「明日身体が動くに足る体力」というリターンを得るための投資を、保守主義の原則に基づいて行うようになる。
当然、家賃や食事もそうだし、通信費や通勤交通費も皆同じ考えになります。
消費すら許されない『追い詰められた人』が増えた理由
企業の経済活動には「投資」しかなく、個人の経済活動には「消費と投資」がある。
しかし、個人の「投資」には2種類あって「資産運用的な投資」と「“身体が資本”的投資」がある。
生活が困窮し追い詰められた個人が、後者の企業に似た投資の連続に陥ったら、景気を浮揚させるようなお金の使い方にはなっていかないと思う。
景気を浮揚させるような消費というと、身体から離れた場所にまで影響を及ぼすような事象事物とか、現在よりもより未来に影響を及ぼすような事柄であるほど効果が高いように思います。
ゆえに、ただただ身の丈の消費しかできない人は、景気浮揚にはそれほど貢献できないように感じます。
「保守主義の原則」だから、あまり攻めの姿勢はとれず、従って戦果も小さくならざるを得ない。
ではそこまで「追い詰められた投資」しかできなくなる人は、どうやって出来上がってしまったのか?
たとえばジョブ型雇用の蔓延であったり、景気が低迷しているのに「景気はなお増大している」と国民を騙して断行した消費増税とかは、大変わかり易い事例です。
まとめ『一利を興すは一害を除くに如かず』
『一利を興すは一害を除くに如かず』とは古のモンゴル帝国の耶律楚材の言葉です。
GOTOは、身の丈よりもはるかに大きく、より遠く、より未来を見据えた景気浮揚策としては良いものかもしれません。
しかし、追い詰められた投資活動しかできなくなっている国民の数が多くなってくると、これ見よがしな格差を生むばかりで、特にコロナ過で生活が脅かされる人が急増する最中に採るべき方策としては完全に間違っていると思う。
医療や介護、福祉などの職に就く方々もまた「消費どころではない」状態です。
減収になった方や、もともとの収入額が低い方は、金銭面でも活動制限という点でも、「GOTOは一番参画しづらい企画」でしょう。
それよりも、庶民に痛みを負わせてしまった政策を凍結し、傷を回復させることです。
個人的にGOTOって「火災が延焼して建物が消失していってるから、ゼネコンに発注してビルを建築しよう」という決定に思える。
火を消すのが先だろ? バカじゃないの?
そう言いたくなるのです。
だから、「やるのかやらないのか?」とか「いつ停止し、いつから再開なのか?」などで紛糾し、他のプランが全く出てこないのが本当にバカバカしい。
庶民はともかく、倒産や廃業、解雇や雇止めがなく、落ち着いて思考すべく安全が保障されている政治家や官僚がそんなことも考えられないようなら、存在する価値がない。
公僕とは認められません。