本日現在、体温は36度台に落ち着いていますが、頭部不快感が強く、長時間連続して起きていることはできません(ゆえにこの記事も跡切れ跡切れに書いてます)。
5分くらい歩いただけでフラついてくるのは、この頭部不快感に加えて、半強制的な絶食(否応なしに食べられなくなる)が2週間越えした栄養状態悪化の影響も大きいでしょう。
つまり、行動制限期間が過ぎても、自主的に行動制限せざるを得ない状況です。
ちなみに、感染経路は不明。
私の日常を知る人は「文鳥さんは、感染しないでしょうね」という(言っていた)。
たしかに積極的にも、消極的にも、日常習慣的にも、私は感染しづらかったはずという自覚はあります。
当然ですが会食なんてしていないし、濃厚接触の機会なども持っていません。
積極策1「食習慣」
”積極的”というのは食習慣で、納豆やキムチなどは昔からよく食べているし、最近はブログ記事でも紹介しているように、自家製ヨーグルトや甘酒などを継続的な生活パターンに取り入れている。
積極策2「運動習慣」
そしてもう一つの”積極的”こそ私の拠り所で、ウォーキングの習慣を徹底して自分のものにしたことです。
これは今年の1月からほぼ毎日続けています。
それまで休日にしか実施できなかったウォーキングを、会社からの帰り道にしたことで、強制的なエクササイズの機会を作りました。
その頃に書いたのが下の記事です。
「片手にカバンを提げて歩くウォーキングは良くない」というアドバイスなどもあり、ザック式のタイプに変え、靴もウォーキング専用のものに変更。
履き心地が最高だったので色違いを調達し、平日も休日も1時間〜4時間くらいはトップスピードで歩き続けていました。
かつては意義を感じられなかったウォーキングを、実践しながら捉え直し「食物摂取による自己免疫の強化」に加え、「継続運動による自己免疫の強化」にも余念はなかったと思っています。
消極策1「電車乗車時間の削減」
これはウォーキングとのトレードオフによって自動的に生まれたものです。
会社帰りの電車に、あと10数分乗り続ければ簡単に帰宅でき、自由な時間も得られるところ、それを放棄して普段より1時間以上遅い帰宅時間になる。
しかし、本格的に混み始める駅か、その手前で降りてしまうことにより、リスクを減らし、健康効果を増すこの方法を、私は採用してきました。
消極策2「人混みは嫌い」
これは策というより性格です。
象徴的な言い方をすると、私は若い頃から「午後の渋谷が大嫌い」
駅まで5分程度の場所へ行くのに、人が多すぎて3倍以上の時間がかかるようなところへは、特に中年すぎには絶対にと言って過言でないくらい、足を踏み入れない。
もちろん行列にも並ばない。
ごった返す商業施設を見ると、足が止まり、引き返す。
日常習慣「手洗い」
これはコロナではなく、十数年前に報道が過熱したノロウイルスの頃から実施していることですが、私の手洗いは念入りです。
ネットかTVか忘れましたが、医師が言っていたことで「ノロウイルスは石鹸では死にません。最も効果が高いのは水流です」という言葉を知り、手の洗い方を改めました。
それまでは「手に石鹸をつけて、その石鹸が流れたら手洗い完了」といういい加減な方法でいたため、手洗いの時間は極めて短いものでした。
しかし、市販の石鹸にはそこまでの洗浄力がないのが普通で、私がやっていたような”なんちゃって手洗い”で完璧な殺菌ができるとしたら、その石鹸の洗浄力は逆に危険。
コロナ禍以降は、より一層に細部まで気を配ってよく洗うようにしていました。
パンデミック時に「感染予防と感染後の結末も自己責任」の菅政権
とまあ、ざっと見渡した感染予防対策だけでも「まさか自分が」と思っていたのですが、実際に感染してしまったからには、何らかの原因があったはずです。
私が従事している仕事は、別に出社が必須ではありません。
PCを持ち帰らせ、携帯を持たせれば可能。
はっきり言って、窓口用の電話を私に持たせてもらえば、お客様からの入電を一手に引き受けても良いです。
そういう関係が築けるように何年も心がけて来たので、今こそそういった努力が実るときではないかと思っています(その分給料も上げてもらいたいが)。
しかし会社はテレワークを許さない。
企業のテレワーク実施率なんて、いくらでもごまかしようがあるのでアテにならないのが当然です。
アテにならないといえば、東京都の感染者数が減ってきた報道がされています。
しかし、そうはいっても1年前と比較すればバカげているほどの激増です。
検査数や陽性率までを考えたら、当時との比較を云々するより、常に新事態として対策を創造しなければ、政治や行政の役目はとうてい果たせない。
「緊急事態宣言発令対象の自治体をどうするか」みたいな議論を呑気にやっている政治家こそ真のコロナ脳、というか、コロナ以上に重篤な『バカ』に冒されているのではないかという気がしてならない。