【感情会計】善意と悪意のバランスシート

善と悪の差し引き感情=幸福度

コロナ後の倦怠感に関する雑感2(疎外感を避ける方向へ気持ちをシフトしよう)

コロナ後の体調不良について、職場での私は説明が面倒だから「倦怠感」と言ったり「めまい」という比較的市民権のある言葉で通しています。

(説明不要の味覚・嗅覚障害は今回は完全無視で書きます)

 

発症が8月の感染爆発の頃で、「ちょうどピークだったあの頃です」と言えば、それを聞いた側の人がすぐにイメージでき「ああ、あの頃ですね」と即座に共感状態に入ってくれるのがありがたい(?)ことです。

 

当時のニュース報道などを頭の中で蘇らせ、回想に浸っているであろう相手に対して象徴的なエピソードをいくつか話すと、書物を呼んだときのような追体験を呼び覚ますためか、案外あっさりと「後遺症大変ですね」という認定をしてもらえる(と思う)。

 

 

心理的な意味での倦怠感とは?

復帰直後はとにかく集中力が続かなかった。

 

真っ当な判断や作業ができる身体の状態というものが、夕方には完全に失われている。

といった状態でした。

 

倦怠感というものは、どうやら身体だけでなく心理的な症状としてもあるそうなのですが、少なくとも私は「心が落ち込む倦怠感」というものにはなっていません。

 

というより、”心が落ち込む倦怠感” というものに疑問を感じていて、その考え方に賛同していない。

 

少なくとも肩コリで心が落ち込むことは無いと思う

私の”倦怠感”の症状のひとつに、「指先でする細かい作業のときに、手の震えが起きやすくなる」というものがあります。

 

地味だけど、作業には結構支障がある。

 

それは加齢によるものだと決めつけることもできますが、コロナとは全く無関係な時期も含めたこれまでの経験上、この状態になるまでには常に伏線があって、そこには疲れが大きく作用している。

 

しかもその「疲れ」は、スポーツなどで激しく体を使ったための疲労ではなく、むしろ体を殆ど使わなかったときのダメージで起きることが、過去の膨大な経験による情報から導き出せる。

 

小難しい言い方をしましたが、単純に言えば「パソコン操作しすぎて肩が凝った」というようなものです。

 

ただ、私は肩コリを感じない体質らしく、PCなどの細かな作業に起因しておこる症状の中でも、特にわかりやすく市民権のある、この「肩コリ」という不調とは無縁です。

 

このため、常に説明の難しい「活力を阻害する不快な身体症状」と向き合わざるを得ない状態が、何十年にもわたって続いています。

倦怠感がツラい要因のひとつは「自分が理解/納得できない」ことじゃないか?

私は、死ぬほど肩コリしてもおかしくないほど固まった姿勢を保ったまま細かい動きを一日中継続しています(まあ、同じような人が世間にいっぱいおられると思いますが)。

 

しかし、そんな精神疲労・神経疲労・肉体疲労が合わさった1日を過ごしているわりに、肩コリの症状を感じない。

 

ただ、もちろん目とか首とかにはツラさを感じます。

 

しかし、一般的な事務仕事の疲労の中で、最も自他共に理解しやすいであろう肩コリの自覚がないゆえ、自分の体の不調を単純で気軽な言葉では片付けられない状況にもあります。

 

結局のところ、他人に説明できる言葉を伴わないと、自分自身を納得させることもできないので「なぜこんなにつらいのか?」の回答がないまま、不安を抱える心理になることは避け得ない気がするのです。

 

不快な身体症状で”落ち込む”までのプロセスについて考える

不定愁訴というか倦怠感、あるいは未病とか何かの予備群状態みたいな存在は、なにか断続的に「落ち着かない気持ち」にさせてくるものです。

 

ですがその一方、私が長い間味わってきている『説明が困難で、表現することを半分諦めている不調状態』の経験から「これは純然たる身体不調なので、精神まで侵食しては来ない」という実績を積んでいます。

 

「倦怠感」より『疎外感』のほうがダメージ強くないか?

もしも倦怠感による心理的なダメージがあるとすれば、それは他人からの攻撃か、自分自身の想念で精神攻撃した場合ではないかと考えています。

 

要は、コンディションが充分でなく、他者が求めるだけの働きができなくて、体の問題じゃなく、能力や存在価値みたいな意味での責めを受けてしまった、とか・・。

 

こういった外的要因は、間に挟まっているプロセスにすぎないのだけれど、日々の生活単位で見れば「倦怠感によって精神的にツラい」というストーリーにはなるでしょう。

 

それから、自分自身の予測によって自縄自縛になるケースも有る。

 

「この状態で出社して、ちゃんと働けるイメージが湧かない」

それで会社に連絡して休んでしまった。

 

仮に ”出社まではできた” としても

「集中できずにミスばかり。周りの人たちとの会話もちぐはぐ。この状態で一日職場にとどまっても、迷惑を掛けるし自分はツラいばかりだし・・・」

と思って、罪悪感いっぱいの表情や動作を晒しながら早退する。

 

このパターンを数回繰り返したら、身体の倦怠感がどうとかいうことより、社会性の観点から自分を追い込んで心理的ダメージを与えることになってしまうと思う。

 

しかし、これも日々の生活単位で一個のストーリーとしてタイトルをつけるなら『精神を蝕む倦怠感』として成立しそうな気がします。

 

(続く)