「あの人、理詰めだよね。冷静で頭の回転早くてさ」
こういったうわさ話の中に含まれる『理詰め』というフレーズ。
【数理】と【文理】で言えば、どっちを差していることが多いだろうか?
会話として盛り上がるのは、互いのイメージをテンポよく送り合える内容だと思う。
数式を送り合うには、互いに相応の数学力が要るからだ。
おそらく、日常のうわさ話程度で展開される『理詰め』とは、【文理】が多いだろう。
平たく言えば "文系" の守備範囲だ。
・単語ひとつで自分勝手にイメージをふくらませることができる
・概念的
・考え方に幅をもたせられる
・他人とのコミュニケーションに使いやすい
営業や販売職に文系が多いとか、プログラマーやシステムエンジニアの多くは人付き合いが苦手とか、我々がなんとなく当てはめてしまう「職種による向き/不向き」から見ても、意思の交換には数値やコードではなく文章が使われるのがほとんどだ。
ようするに【作文】である。
作文でゴマかす
たとえば、首相官邸のホームページ内の「ご意見募集」にこんな声を寄せたとする。
「私たちの生活は、コロナ禍で経済的に追い詰められている! これ以上緊縮財政を謳って財政出動を渋り、国民を苦しめるのをやめてくれ!」
極めて切実な声ではあるが、これだと
「そうですね。悪いのは『コロナ』ですね。政府では一日も早いコロナ禍の収束に向けた各種施策に取り組んでおり・・・」
と、手前勝手な演説を展開されてしまう。
これでは『一日も早く収束してしまう』のは、窮状を訴える声のほうだ。
【文系】色を抑制、【理系】を強調
では、数値を交えて訴えてみたらどうか。
これは訴えるレベルの話にはならないが、我が家の揚げ物事情に関する菜種油の価格を例に取ってみる。
「1缶749円(内消費税55円)の菜種油が818円(内消費税60円)に値上がり。
来月から1缶あたり一気に69円も価格が上昇」
「来月から」というのは極端すぎるので、もう少し時間的な猶予があるものとして「来年1月から」とする。本日現在からだと約2ヶ月。
ということで少し書き換えると
「来年からの消費に打撃あり。
1月から1缶749円(内消費税55円)の菜種油が818円(内消費税60円)に値上がりするとのこと。
1缶あたり69円の価格上昇により、現在の予算額「ひと月あたり750円」では1月の消費はゼロとなることが確定。
なお、収入が上る見込みはゼロ。
安定的かつ継続的消費を保持するため、年内の速やかなる財政出動を求めるものである」
この言葉に加え、月の支出内訳の変動/固定比率から種別ごとのパーセンテージ、さらにエンゲル係数に至るまで、様々な数値を書き出して訴えの強化を目論んだとする。
先程の文例のように、ただ単に「これ以上苦しめないでくれ」というのに比べたら、具体的金額や数値が加味されていて、しかも感情論は入っていない。
強調された【理系】的な国民の訴えと戦う(?)官僚
何を問われても壊れたレコードみたいに同じ答弁を繰り返す政治家は問題外として、常識的に思考する能力を持ち合わせた人間なら、ここからは相手の意図を汲んだ対話になる。
数値に基づいた理詰めの主張に対し、私が財務官僚ならどうするだろうか?
前の記事で書いたように、国民の主張に真っ向から向き合ったら「全体の奉仕者」になってしまう。
それではエリート財務官僚の風上にも置けぬ劣等生に堕してしまう。
国民は理系的要素を前面に押し立ててきた。
こちらは別の要素を投入し、国民の訴えを退けねばならないが、その下準備はできている。
訴えを受け入れるのではなく、訴えるモチベーションを溶かしてしまえ
前回記事で書いた「ドラスティック・アボイド」又は「ドラスティック回避」のフレーズが独り歩きしている段階まで進んでいれば、回答の最初にそれを前面に出すと、なぜか訴える側の気持ちがある程度氷解してしまうことが多い。
普段あまりしない「訴え」「主張」といったものを他人にぶつける行為は、それだけで大仕事であり、精神的重圧も強い。
訴えを敢行した側としては、そこが解消されただけでカタルシスが得られ、なんとなく目的を達したように勘違いしたとしても、心理的に見れば不思議ではない。
「主張慣れ」していない人は、”主張セレモニーの実行” に目的が置き換わるので注意
ディベート慣れしていない人は、まず「自分の思いを発する」という行為でエネルギーの大半を消費してしまう。
これは本来の問題である「経済的窮状に対する挑戦」とはまったくの別物。
しかし、慣れないことを実行するのもれっきとした「挑戦」である。
このため、いつしか ”自身の想いを相手にぶつけるセレモニー” が主体に置き換わってしまうのだろう。
すると、相手がこちらの言葉に反応し、何らかの意見を返してきただけで、自身の内部に籠めていたエネルギーが、相当程度霧散してしまう心理が働くのだと思う。
要は「やった気になる」
官僚は「やった感を出したい」
残念なことだが、ある意味で需給バランスが取れている。
訴えられてしまい、なんとかそれをゴマかしたい側の失敗ルート
決死の思いで自身の不満を訴えたとき、相手が返してきた言葉があまりにも意味不明だったとする。
すると、不安が残ったままなので、この場合は籠めていたエネルギーが解消されず、訴えたい内容はその場に残存する。
この状態が続くことは、なんとかゴマかしてやり過ごしたい官僚サイドとしては好ましくない。
「怒り」「不機嫌な態度」を見せても引き下がらない状況を読めないアホ官僚の場合
訴えた側の心理を推測してみる。
相手からの意味のわからない言葉が、怒声に近い言い方や、突き放すような冷たいトーンで返された場合、「戦いは終わっていない」という印象が残る。
言わなければならないことは言ったので、終始緊張していた ”主張のセレモニー” は完了したが、戦いが続く以上、”2度目のセレモニー” が必要だということは理解した。
再戦となれば、今回のようにセレモニーそのものが目的に置き換わる愚は避けられるので、次はしっかりと準備して攻防戦が可能な状態で望めそうだ。
これは、ゴマかしたい官僚サイドとしては、下策な戦い方だ。
エリート財務官僚たるものこんなことをしているようでは、地方の小さな出先機関の長くらいのポストで終わってしまうやもしれぬ。
まず、国民には勝たねばならぬ。
勝つことは必要最低条件で、むしろ ”勝ち方” が出世評価の対象だ。
ならばせめて、相手が理解できない言葉を、『穏やかに言い聞かせる』ふうに装う程度の演技力が必要なことは言うまでもない。
あらかじめプロパガンダを成功させておく優れた官僚の場合
ここで、互いの共通言語としてあらかじめ定着させておいた「ドラスティック回避」のフレーズが生きてくる。
もう一度、訴えた側の心理を推測してみる。
決死の思いで、ふだんはしない「主張・訴え」をした。
たとえ短い言葉だったとしても、慣れない行動に力を使い果たし、ほぼ疲労困憊の状態だ。
もしもそのとき、相手の返してきた言葉が、自分も理解している平易で馴染み深い言葉だったなら・・
「相手の論旨が理解できた」
「つまり、相手がこちらの言ったことを理解し、返答した」
という錯覚が生まれやすい。
そのときこそ、カタルシスも相まって「やった気になる」
官僚サイドは「やった感を出した」
互いの需給がうまく噛み合う。
本当は「ドラスティック」は双方で意味が真逆だ。
国民にとってドラスティックなのは、モノの価格上昇や、租税負担増による相対的な可処分所得減少により、好きなものや習慣的な事柄を、いきなりバッサリ切らなければならないこと。
財務省にとってドラスティックなのは、積極的財政出動をして全国民の経済生活を国家がまんべんなく支えること。
つまり、実は全く解決していないにもかかわらず、訴えた側のモチベーションが解消され、なぜかそこでディベートが終了する。
弱者必敗の主張(訴え)劇
さきほども述べたが、こういうことはビジネスなど日常のやり取りでもよく起こる。
友人関係でも家族間でも起きるが、まず100%「弱者から強者への主張」の中で行われる。
弱者が翻弄されるこういった仕掛けが、どうにも納得いかない
(続く)