たとえ学業成績が良くなくとも、物事の本質が見えている人間は「聡明」であると思う。
逆に、どんなに学校の成績が良くても、ものの本質が見えない人間は、その分だけ反動が大きい。
『学業が秀でているにもかかわらず』という条件が加味されるので、本質の把握に難があると、理解が極度に偏った人間と捉えられやすくなる一面もある。
「全体の奉仕者」を美化してはならない
前回、いかにも官僚(全体の奉仕者)が使いそうなごまかしの戦術を描いてみた。
「菜種油が69円も値上がりし、月予算の額をオーバーしてしまうので助けてほしい」という声に対し【否定】【すり替え】【ごまかし】などの戦術で聞き入れない官僚の姿である。
・「消費税は値上がりに含まれない」と即座に否定
・「実質値上げ幅が64円ということは、30日間に対する影響度は約9.2%である」と論点をすり替え
・「9.2%を日数に置き換えて、『新・消費日数は32日』とせよ」とお手盛りな数値を築き上げ
・その挙句「32日間で消費せよ。物を大切にせよ」と切り捨てる。
これで引き下がる弱者こそ、いい面の皮だ。
しかし、見込みが甘かったのも確かではある。
美しいドラマは「現実では稀なこと」だからこそ美しい
思いさえ伝えれば、人はみな、きっと動いてくれる。
そんな物語に接し、純粋に感動した経験を持つ人は多いだろう。
しかし、実現しないからこそ、現実からの逃避として美しい物語が作られるという一面はあると思う。
美化された物語のほうに感化され「こんなにも困っている。助けてほしい」と、切々と訴えたとしても、それだけで攻撃ターンが終了してしまっては意味がない。
それでは官僚的なごまかしに翻弄されるばかりだと書いたが、それは ”訴え” と ”戦い” を取り違えているからと思われる。
相手はこちらを敵認識している。
陳情者を押さえ込んで追い返す戦いだ。
そんな相手に対して無防備に直訴などしていると、一般民間人は官僚にやられてしまうという図式を、一度は頭の中に描いてから接したほうが良いだろう。
「この武器ならワンパンで勝てる」という出席者は、会議でワンパンされる
「恐れ多くもお役人様に申し上げたい言上」はたったのひとつしか用意してきていない。
実際問題として、その場で交わされる質疑や、ディベートに対応できる材料を持たない。
つまり ”一の太刀” しか持ってきていないので、一旦そいつを振り下ろしたら、もう闘うすべを持っていない。
「この思いさえ叩きつければ、どんな相手だって受け止めざるを得ないはず」
そうではない。
思いを叩きつけるのは、戦場でのオプションのひとつにすぎない。
勝負を決めるのは ”思いの強さ” という単体ではないのだが、思いさえ強ければ願いは達成されると考える人の数は意外に多い。
それゆえ、上で述べたような官僚(的なヤツ)が次々に繰り出すバカ理論の餌食になっているのではないだろうか。
「言い方」は失くしてもよい、「言いたいこと」さえ見失わなければ
「これだけはどうしても言いたい」と勇気を振り絞るのはよいのだが、文字通り『これだけ』を後生大事に懐へ携え、二の太刀を持たずに戦場に立ってしまう人は多い。
ビジネスの局面でも「二の太刀」までしっかり用意している人は少ない。
しかも、懐に抱えているのが「言い方」にすり替わってしまっていることに気付く人はもっと少ない。
会議や何かの道具立てや、声の抑揚や言い出すタイミングなどに気を取られ、いつのまにやら手に持っているのは「言いたいこと」じゃなく「言い方」にスイッチし、後者を戦場に投じることが目的化している。
コンペのプレゼンや、仲間同士のディベートまでを総じて見ると、対話はたくさん行われているのだけれど、大抵のケースでは「今持っている球を投げる」が最終到達地点という人が多い気がする。
だから、質疑応答になると途端に目が泳いで発言がヨロヨロになり、結局持ち帰って改めてご報告いたします式の回答をしているビジネスパーソンをよく見かける。
「言い方」は1回の投入で消失したとしても「言いたいこと」は無くならない、失くさない。
官僚のバカ理論戦術に振り回されてしまうのは、「言いたいこと」がなおざりになった末に唯一の武器となってしまった「言い方」に対して攻撃を受け、動揺するからだと思う。
学業や試験成績だけが優秀で、本質を捉える力のない官僚などに、戦いの端緒で後れを取っている場合ではない。
では、バカ理論戦術が通用しない「言いたいこと」とはなんだろうか。
シンプルであればあるほど、扱いやすいはずだ。
(続く)