「国債は『国の借金』。将来にツケを回さないため財政健全化を図り、確実に返していかなければならない」
この財務省の主張は、長く信じられてきた。
別に、アベノミクスの手により生まれた論理ではない。
2000年以前からすでにこの考えは蔓延していた。
中央省庁の役人だった頃の私も、まんまとこのプロパガンダを信じ込み、国債発行額が膨れ上がっていくことを気にしていたからだ。
「自分たちで減らす努力は?」という国民の声に対して各省はどうする?
「将来にわたる "莫大な借金" という不安があったのでは、消費も活発化せず、今のこの不況から脱することは難しいだろう」
若き日の私は、国家公務員の立ち位置から、そんなふうに考えた。
景気は ”気分” である。気持ちが萎縮していては、景気は上がらない。
『国の借金』という言葉が持つ "イメージ想起力" は非常に高い。
具体的にどんなことかをいちいち形にせずとも、抱いた概念だけを媒介にして、不特定多数の人と意思が通じ、一定の結果や回答、または行動へ向かわせる効果がある。
マーケティングとして、このフレーズはそういった力を持っている。
緊縮財政にしても自分たちでは『国の借金』を減らせない各省
国家公務員だった私が、自分側の立ち位置で国債残高を減らす方法として考えたのは「各省庁がムダ金を使わず、余った予算を国庫に返すこと」だった。
言い換えれば「節約して、不用を出す」
『国の借金』ならば、当然そうだろう。
債務者が財布のひもをガバガバにして垂れ流すなんて、正常な感覚の人間ならまず考えない。
「ウチの手元にあるカネなんだから、使わなきゃ”損” だ」
いや、あんた借金してる側なんだよね。
無理やり使うという発想には、ふつうはならないだろう。
『緊縮財政』というのは、その意味でいえば正常な考え方だ。
しかしこれには少なくとも二つの矛盾がある。
節約した分のキャッシュが民間へ流れない
国家予算の執行では、民間にお金を流すことが多い。
自治体への補助金や委託事業といった支出もあるが、受け取った地公体の最終支出先が民間である場合は、キャッシュが間接的に民間へ流れる。
地公体の中で消費され、”役務” として地域へ還元される類の支出を除いては、基本的に民間が受け手になるはずだ。
ということは資本の蓄積を目指すにせよ、再配分を目指すにせよ、緊縮財政は広く民間へ開かれた「国からのキャッシュフロー」の妨げになりそうな気もする。
当時公務員で、しかも局の会計を担当していた私は「国債残高が増えているからといって、国家が節約して不況はおさまるだろうか?」と考えていた。
節約して余っても、絶対に国庫へ返さない
仮に、全省庁が当初の執行計画をシビアに見直し、平均で30%の支出削減を達成できたとする。
全省庁平均で30%といえば、相当な金額が節約できる。
もちろん、上に挙げた一つ目の矛盾点により、節約分が民間に流れないとすればそれは問題だが、あえてそこは無視するものとする。
ここでやっかいなのは『不用』の問題だ。
不用とは、示達されたのに使わなかった予算のことだ。
不用が計上されてしまったら、翌年度の予算は削られてしまう。
「要らなかった」という判定がされてしまうからだ、財務省によって。
「与えたのに使わなかったのだから、当然来年もいらないだろ?」
我々が予算執行に目の色を変える最大の原因がこれだった。
予算が減らされてしまうと、キャリア官僚の出世に差し支える。
由々しき事態である。
各省庁は、よほど特殊な例外を除いて、不用という ”悪事” はしない。
もしも不注意により、逃れえぬ形で予算未消化をやらかしてしまったら、担当者はそれこそ犯罪者というほどのインパクトを生んでしまう。
その ”大事件” のほとぼりが冷めた後も、前科持ちのごとく、どこへ異動しても噂はついて回るだろう。
つまり、どれだけ節約しても各省から国庫へ返納するとは考えられない。
なんとしてでも別の事業をひねり出し、無理やりにでも自分たちで消化する。
強引に事業を増やす過程で、必ず過重労働が起きる。
しかし、たとえ担当者が倒れようと、進軍する兵隊たちは銃剣(未消化予算)を倒れた者の手から引き継ぎ、自身の健康や家庭生活の安寧が脅かされても、銃剣が溶けて無くなるまでは、絶対に前進を止めない。
子供には「自己責任という丸投げ」こそ背負わせたくない
私は単年度決算は非常に良くないと思っているが、上の事情もその理由の内だ。
(本当は他にもまだあるが)
単年度決算には当然メリットがあるにしても、デメリットのほうが積みあがっている。
国債残高の積み上がりよりも、むしろそのほうが将来に暗い影を落としている気がする。
『国の借金』を盾に、国民を危機に陥れるというのはおかしな話だと感じないのか?
という疑問に対しては
「そのとおりだ(感じない)」
とは、政府も財務省もはっきり言わない。
代わりに「自己責任」という、これもイメージ想起力満載の便利な単語を発する。
そうして言葉の解釈は各々でマイルールを適用するように誘導すると、聞かされた側ではさっそく自己説得を始める。
危機に瀕している弱者ですら、一旦はパズルゲームに熱中するかのように「私の場合『自己責任』をどうやって適用しようか?」と余念が無くなる。
効果はてきめんだ。
素人だが『国の借金』というものについて考えてみることにした
そんな威力を持つ『国の借金』・・国債とはいったい何なのか?
わかっているようで、実は何も知っていない得体のわからぬものについて、少し調べてみたくなった。
しかし、学業成績もふるわず、国家公務員試験も高卒レベルで通ったノンキャリアあがりの私・・
国債の知識はほぼ無く、いわばまったくの素人だ。
そんな私が自得するとなると、かなりの自己流になるに違いない。
しかし、やらぬよりはマシ。
少しだけやってみようかと考えた。
(続く)