私がたびたびブログ記事にしている『世相のうっぷん晴らしチャンネル』では、単身世帯・貧困層、さらにロスジェネ世代についての言及がよく為されています。
昨日また、その系統の動画がアップされていました。
今回のテーマは『孤独』です。
これまでは、コミュニケーションの相手がいないことこそ孤独の元凶であるように言われ、『孤独問題』とは、そこをいかに解消するかであると思われていたけれど、どうやらそうではないらしい、ということのようです。
”孤独”=”ツラい”ではないという気づき
上の動画では「内閣官房の孤独・孤立対策室」の調査結果に基づくコラムニストの記事を元に語られています。
「孤独を感じることと、孤独を苦痛に感じることとは別」というところから始まり、孤独を感じているのは、他者との交流が多いはずの現役世代である、という点がクローズアップされているのがポイントです。
さらに詳説されているのは「孤独感に追い込まれる最大の要因は『収入の低さ』にある」ということです。
単身でも2人以上の世帯でも、年収が増えるほど孤独を感じにくくなるとした報告がなされている、と。
お金がある人しか言えないきれいごと
どうもこの動画で取り上げたコラムでは、ありがちな反論にもしっかりと反駁しているところが興味深い。
曰く・・
「お金があっても孤独に悩む人はいる」
「友達や家族はお金じゃ買えない」
みたいなことは、誰でも考えると言ってよいセリフですが、
「じゃあそれで納得すれば現実の問題が解決するのか?」
と問われると、きれいごとを聞かされても、貧困の解消には何の役にも立たない現実にぶち当たる。
そもそも、そういうきれいごとは『カネ持ってる前提』の人間だけが、念仏のように唱えるただの押し付け、というのもたしかに一面の真実でしょう。
詳しくは動画で語られているのでこれ以上は書きませんが、私がなぜこの話に乗っかりたくなったかというと、かつて年収160万円くらいだった数年間の経験がオーバーラップしたからです。
自分に「ご褒美」を出すカネがあるなんて、生きてるだけで褒美みたいなものじゃんか・・
しばらく前に記事にしましたが、私は昔、年収が200万にも満たない時期がありました。
動画を見ていて当時のことを思い出したのです。
友達に誘われたが ”交通費負担” がムリで断った記憶
友人から「久しぶりに会わない?」と言われ、うれしくて前のめりになった私は、そこまでの往復交通費が普段の1食分を超えることに戦慄し、慌てて取りやめた。
それ以降は最初から断るようになり、だんだん声をかけられることも無くなっていった……。
羽振りが良かった頃の交友関係は、確実に経済的要因で切れていったな、と。
「金の切れ目が縁の切れ目」は、じつに現実的。
困っているときの ”現実” は、お金がある時(人)には想像もできないリアリティを突きつけてくる。
政府がもっともらしく掲げる施策は、現実の困窮者には届かないと断言できる理由はここにあります。
褒美の代わりに鞭を打っていた記憶
その当時「自分へのご褒美」という表現は、まだなかったと思います。
「偶(たま)のゼイタク」とか、そんな言葉が使われていたはずです。
しかし、そんな元手が無い身にとっては、ひたすら耐えて、今の生活から抜け出すべく自分に鞭を打ち続ける以外の選択肢がない。
ツラいときも鞭、嬉しいときも鞭。
再び人がましい生活に戻るためには、「欲しがりません勝つまでは」を継続せざるを得なかった。
当時の私は自助の手段として会計事務所への就職を指向し、税理士の科目合格を目指していたけれど、受験資格を得るには簿記検定に合格するしかない。
テキストや問題集を買うためにバイトの残業と休日出勤を増やせば、勉強時間が犠牲になるトレードオフに悩んだり、そうかといって勉強に専念して定時上がりを続けてると「家賃がやべぇ!」ってなったり……。
考えても仕方のないことながら、いつも心の中ではかつての友人たちと、今の自分とを比較してしまう。
そうすると、自分がいかに孤独かを思い知ることになります。
だから、その辺が心に響いたんだよなぁ・・この動画
たしかに、年収の低さが孤独感につながる法則性はあると思う。
ということで、ちょっと記事にしてみました。
ちなみに世相さんは、この動画の中で逆転の発想を掲げています。
「300万円の壁」を逆手にとって、一挙に少子高齢化へブレーキをかける手法です。
政府がやっているどんくさい対策への皮肉もたっぷりで、なかなかに楽しかったです。