お気に入りの小説が映画化・ドラマ化された経験は何度もあります。
しかし、アニメ化された経験は1度しかありません。
これは少ないほうなのでしょうか?
それとも、読んだ小説がアニメ化された経験があることのほうが珍しい?
どちらにせよ私は1回だけ。
そしてそれ以来「原作を読んだままのテンションでアニメに期待してもなぁ・・」という感想に至りました。
実は主人公は<新宿さん>のほうでは?
10代の頃、菊地秀行さんのデビュー作『魔界都市<新宿>』という小説にハマりました。
⇧⇧この「完全版」は、デビュー作とその続編『魔宮バビロン』の合本で、いずれも<魔界都市>創成の時代らしさが満載で、何よりものちの菊地作品における ”掟” たるドクターメフィストの扱いが違う。
「黒い医師」メフィストは女性に優しい点など完全に掟破りのキャラ設定。
ほかにも、街の中華屋でラーメンのどんぶりを両手で傾けてスープを飲み干し、数百円のお代を払おうとするなど、のちの作品しか知らない人には驚きの展開です。
「白い医師」以外のメフィストを認めたくないファンには、20年後に再開した十六夜京也シリーズは鬼門かもしれません。
私がこの小説を知ったきっかけは、当時週刊少年チャンピオンに連載されていた『魔界都市ハンター』という作品。
2作とも主人公は一緒ですが、マンガのほうは小説の派生作品で、劇中では回想シーンとして小説のクライマックスのバトルが断片的に描かれています。
この派生元である小説が、まさに私の好みにピタリと合っていた。
「魅力ある主人公=売れるビジネスモデル」
前の記事で書きましたが『魔界都市<新宿>』という作品は、後の菊池作品では考えられないくらいの完璧な青春冒険小説。
エロスや生々しい暴力シーンがゼロで安心して読めるうえ、主人公の魅力の描き方が素晴らしい。
この、”主人公の魅力の描き方の巧みさ” は菊池作品では大いに目立ちます。
新宿区全体を「魔界都市<新宿>」として、この舞台を徹底的に使い回すので、やり方をしくじるとマンネリ化が進みそうなものです。
そうなると、作品間の整合性の検証→ツッコミくらいしか関心の対象にしない読者が大量発生しそうですが、菊池さんが描く<新宿>を舞台とする作品群は、いい感じにファンの新規獲得や囲い込みに成功しているようです。
まとめサイトなども色々とありますが、そこでは矛盾が嬉々として語られていたりして、むしろ矛盾を見つけたら嬉しいと感じるファンが多いことがうかがえます。
主人公は「人」か「土地」か?
私の個人的感想ですが、シリーズ化できるほど魅力ある主人公を生み出し続けることが菊池作品の妙味だし「<新宿>にマッチする主人公」に特化できるところが強みでもあるように思われます。(もちろん、新宿以外を舞台にした作品もありますが)
舞台が同じであるがゆえに主人公の差別化も図れるわけで、主人公設定が巧みな菊地さんにとってはまさにもってこいの世界が広がることになる。
しかも ”世界観” という抽象概念ではなく、端的に「実在する地区」として舞台を作ったことが聖地巡礼的な深みを増し、ファンがハマる結果を招いた。
その舞台を生んだ最初の作品が『魔界都市<新宿>』であったわけです。
アニメを見ない人間の独り言
私は普段アニメを見ません。
そんな私ですら、レンタルビデオ店で『魔界都市<新宿>』のパッケージを見て即借りしたほど、当時のこの作品への思い入れは、現代風に言えば ”推し” だった。
初めて見るアニメ版『魔界都市<新宿>』(たぶんこれかな・・)
すでにマンガ作品で十六夜京也を見ているため、ビジュアル化への慣らし運転も済んでいる。アニメ作品だって、抵抗なく受け入れができるだろう
(というかワクワクしていたのでネガティブなことは思いもしなかった)
しかし、結論からいえば物足りず、二度と見たいとも思わなかった。
古畑任三郎の明石家さんまの犯人回のように、気に入った作品は鬼リピートする私が、あれほどノリノリだった作品を「二度と見ない」とまで思ったのは実に珍しい。
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名誉のために言っておきますが・・
別に、アニメの『魔界都市<新宿>』が酷い出来だったわけではありません。
私の見方が筋違いだったのだと思います。
物語の筋書き自体は知悉しているので、私の関心はもっぱら「小説を読んで思い描いている十六夜京也の魅力を、アニメではどう表現しているか」であったことが、そもそもの間違いだったと言える気がします。
菊池作品の最大の魅力である『主人公をどれだけ魅力的に表現できるか?』が私の最大の焦点だった。(アニメを楽しもうという意識が希薄だった)
つまりは、十六夜京也を主人公とした次回作品を書く菊地秀行さんにしか求められない事柄を、アニメ制作者に求めてしまっていたということなので、鑑賞目的を取り違えた私に原因があると思う。
ちなみに、原作の挿絵とは比べ物にならないくらい、アニメの十六夜京也のビジュアルはかっこよかった。
なにせ原作がこんなんやからね
物語のところどころでワンシーンを図化した挿絵にも、この京也が使われています。
髪型が違うな・・っていうか表紙の京也は帽子でもかぶってるのか?
ちなみに、アニメ化の影響かと思いますが、次作『魔宮バビロン』の表紙の十六夜京也はこんな姿に様変わりしています。
アニメのほうはといえば、声優の声もべつだん違和感を感じることなく「この顔でこの声なら」と充分納得行くレベルだったし、抑揚に不自然さもない。
でも、菊地秀行さんに求めるべきものを他者に求めたがゆえに、いかに感情移入しようにも、どうにも寄り添えないまま視聴を終えることになりました。
読書好きの「時間を止める技」はアニメでは封じられる
もうひとつ、今だから思える事柄として、映像作品では時間を止められないという条件があります。
小説なら当たり前にあることですが、文中になにか別のものを想起させる表現があったときに、一旦ページから目を話し、ひとしきりそちらに思いを馳せてから再び目線が紙面に戻る、ということはしょっちゅうあります。
そうしながら物語を深く読み込むことで、作品の持つ魅力が一層引き立つので、読書好きな人ほど「時間ストップ技法」を多用しながら楽しんでいるのではないでしょうか?
しかし、ビデオを見ていて何らかの感銘を受けたシーンで、わざわざストップして思いにふけるなんて普通はしない。初見ならなおさらです。
常に時が流れっぱなしの映像作品では、たとえ途中でなにか「ハッ」とするようなひらめきを受け取ったとしても、次から次へとスクロールされてしまう。
強制スクロールをストーリーの軸にした『片道勇者』というゲームでは、1画面内に出現する複数のギミックのうち、いくつかは絶対に見捨てなければならない無念さを、常に味わいながらのプレイとなります。
片道勇者 公式ページ より
同じように映像作品の視聴では、散りばめられた「気づきの元」があったとしても、ストーリーは刻々と進んでいくため、視聴者はいくつものそれを捨てなければならない。
(視聴者にリピートさせるほど魅了しない限り、それらは日の目を見ない)
ついでに
『魔界都市<新宿>』のアニメ作品で特に記憶に残っていることがらとして他に、「京也の集中」と「京也の復活」の演出がいずれも愛刀『阿修羅』から青黒い妖気じみたものが立ち昇るというもので、アニメで描こうとしたらこれが限界なのかなという諦めの気持ちは、現在でも脳裏に浮かびます。
小説だとたとえば、『裂帛の気合がそれを跳ね返した』という一文だけで、京也の凄まじい集中度合いが脳裏に浮かぶ。こちらまで力が入ってくる感じです。
また、絶体絶命からの復活では、念法を封じられた京也の手のひらに奇跡的に落ちてきた阿修羅を握ったときの「よォ、久しぶり」というセリフの乾いた感じ→そこからの復活という展開に凄みがありすぎたため、あれと比較されたらアニメはツラいわな・・
結論として・・
①アニメ作品の『魔界都市<新宿>』では、主人公を生み出して表現しているのが、菊地さん本人ではないこと(原作そのものではないので当然ですが)
②進行を止めて想像に浸りたい、というポイントが容赦なく流れていってしまうこと。
ということで、アニメに問題があったとは全く思っておらず、原作を読んでいなければもう少し面白かったのかな?と思ったりします。
(といってもオリジナルアニメだったら見なかったと思うけど・・アニメに興味がないので)