途中で止まっているシリーズ『仮面ライダーの大人向けリアリティ』の派生形として、「誰からも注目されない所でヒーローになりたいか?」について考察していきます。(まあ、これもリアリティのひとつかもしれませんが)
『憧れのヒーロー像』と並立する承認欲求
子供のころ、たいていの人が一度くらいはヒーローに憧れ
「ボクも仮面ライダーになりたい」
「いつか、ウルトラマンになるんだ」
と、夢がかなった時の自分の姿を夢想した経験があるのではないかと思います。
HGシリーズ ウルトラマンVS仮面ライダー 3:仮面ライダー新1号(スペシウム光線Ver.) バンダイ ガチャポン
そのとき、ヒーローになった自分の活躍というのは、悪いやつをやっつけるだけの単純な図式だったでしょうか?
そこに「悪いやつをやっつける理由」はなかったか?
子供ながらもシチュエーションの設定は、それなりにしていたのではないかと思われます。
ヒーローが戦う理由は『正義』?
子供のころに無邪気に憧れたヒーロー像。
そこにはきっと、自分の身近にいる大切な人が "悪いやつ" に困らされていて、ヒーローの自分は大切な人を守ろうとして「それが戦う理由だ」という前提があったのでは?
そして、守るために身を呈して戦う自分の姿を、大切な人や、まわりの人々が見ている光景を、無意識に思い浮かべてはいなかったか?
もしもそうでないならば、誰も見ていない完全ボッチの状態で、自らの特殊能力を駆使して次々と敵を倒すことに邁進することになる。
果たして、そんなシチュエーションを空想していたでしょうか。
それだと、【ファイズ】で何度も出てきたセリフの「力を試している」とか「力を楽しんでいる」といった行為である疑いがあり、ヒーローの大前提である『正義』とは別物な気がする。ちょっと怖い。
やっぱり ”称賛してくれる仲間” の存在がまずは重要で、結局のところそれがモチベーションになっていることは、認めざるを得ないのではないでしょうか?
次回へ続く