今朝の出勤途中、FMで武部聡志さんの番組を聞いていました。
ゲストのアーティストが、昨今の音楽作品の鑑賞のされ方について、映画の例を引きながら話していたのが
「映画館で2時間座っていられない人もいる。じっくり落ち着いて鑑賞できないくらい急いでいる人が増えているようなんですね」
といった感じで、慌ただしい世相が、音楽などを鑑賞するときの特徴として表れている実感を語ると、それを聞いた武部さんが
「昔は好きなアーティストの新曲が出たら、ステレオの前で正座しながら歌詞をじっくり読んだりしたよね」
とコメントを返し「正座」のところで軽い笑いをとっていました。
さすがは名アレンジャーの武部聡志、といったところでしょう。
「好きなことを大事にする」を自然に学んだ音楽鑑賞
言われてみれば私が少年のころ、好きな歌手のレコードを買って、お気に入りのノートに歌詞を書き写して持ち歩いている学友が何人も居ました。
字を書くのが苦手だった私には真似のできない行為ですが、今考えると一字一句を自らの手で丁寧にトレースする営みは、効率という観点では価値がないかもしれません。
しかし、「好きなものを大切にするという明確な意図で行われる、豊かな時を刻む高尚な音楽鑑賞」だった気がします。
そういう経験を積んだうえならば「追いきれないほどの早さで大量に発表される新譜」にさらされても、そう簡単に飲み込まれるといったほどの状況にはならないように思えます。
「好き」と「効率」って、併存できるの?・・というか、したい?
新譜は「押さえておく」とばかりにサッと聞いて知識として取り入れるという行為は ”鑑賞する” というよりは “消費する” と表現するほうが正確な気がする。
武部聡志さんは「情報過多のせいかな?」と仰っていましたが、そうなのでしょうね。
扱いきれないほどの量だから急いで処理しようとして、本来は「鑑賞」という豊かな行為によって感性を磨けるせっかくの機会を、「消費」して終わるようなパターンが繰り返されれば、さすがに心が荒んでくるでしょう。
自分が本当に好きなものという ”軸” を自分自身に認めていれば、たとえ情報過多だったとしても、自分自身が取り入れる対象の切り分けはしやすいと思う。
そうすれば、価値あるものを安く消費し続けて心が荒むことを防止できるのではないかと思うのですが「タイパ」とか言ってるようではそれは望めないのかと・・
教育の質を上げるための政府施策が「単位時間内により多くの知識を子どもに落とし込めること」だとしたら、まさに武部さんが言う「情報過多」の状態に対する最悪のブーストなので、それはやめてほしいと真面目に考えた朝でした。