前回、劉邦と張良の関係にラブコメ感を見出す記述をしましたが、実際に司馬遼太郎さんの『項羽と劉邦』での張良は、風貌や所作のたぐいが女性的に描かれることが多く、司馬さんはよほどそれを強調したかったのだなと思わされます。
そして、見た目だけでなく性格的な側面にも、いわゆる女性的な描写が施されている。
メンタルブレイクするめんどくさい張良
おそらく司馬さんが『項羽と劉邦』を執筆していたときに、ヒーロー像の演出の一表現として、張良のキャラクターに「ギャップ」の要素を加えたかったのではないかと・・
鮮やかな活躍に比して、見た目の弱々しさや典雅な仕草など、ひとりの人間に存在するにしては相反する特徴を重ねて、コントラストの強調を狙ったのではないでしょうか。
何度も繰り返される張良の女性的描写は、司馬さんが使うギミックじゃないかな?
張良に付加したギャップの正統性を補完する ”理由付け” として使ったのではないか?
そんな具合に考えてしまいます。
難しい説明はいりません。『ギャップ萌え』だけでキャラ立ちします
しかし時を経て令和の今に至ると、人格描写にも色々と別要素が加わる。
「女性的」なんて表現もきわどくなってくるし・・
それに、「ギャップ」に理由付けなど無用。
キャラクターのギャップを表現するために、わざわざギミックを使うなんて・・
そんな回りくどいことをしなくても、「ギャップ」というだけでキャラに彩りが添えられる。
ゆえに、司馬さんがギミックで使用したであろう説明が、現在読み直すとかなり浮き上がった感じに変質してしまっているところもあると思います。
たとえば、劉邦の軍が激しい戦いの末に秦都を落とした後、直後の混乱ぶりを強調するためと思われますが、劉邦を主体に書かれるシーンが続きます。
ここにおいて、およそ混乱という単語がそぐわない張良は、小説の舞台からは引き下がります。
あの人が居ると劉邦が「混乱」できないので・・
その後、俗に言う「鴻門の会」に至るまで張良の出番はなく、またもや劉邦がピンチに陥った ”ここ一番!” のタイミングで満を持して出番が回ってきます。
一旦下げて上げる司馬文学の妙
こう書くと何やら張良が颯爽と現れるヒーローっぽいですが、そんな安っぽい千両役者的登場をさせないのが ”作家・司馬遼太郎” のキャラ使いの真骨頂。
この部分の司馬さんの記述だと、再登場するときの当初の張良の様子は、あたかも「夜明け前の最も暗い時間帯」のようです。
関中が治まってから、あの戦争屋の張良は不要になった
この一文だけで、秦軍討伐の際にあれだけ活躍した張良の境遇が、ガラリと変わってしまったことが端的に記されている。
必要ではなくなったとみると、あからさまに無関心になる劉邦。
その冷淡さに接して自分自身が傷ついてしまうことを避けるため、張良は自ら劉邦の帷幕に近づかなくなった、と司馬さんはこのときの張良の心情を詳しく書いています。
彼氏にほったらかしにされてメンブレを起こした彼女を想起させる描写としても通用するわかりやすい解説ですが、この稿を書いたときの司馬さんは、まさかそんなことは想像もしなかったでしょう。
むしろ、知性と感性に優れた智者の振る舞いとして、いかにも張良らしいキャラ付けを意識したのではないでしょうか。
そして「颯爽と現れる張良」をあえて原稿用紙に書かないことによって、読者が頭の中で自らヒーロー像を生み出すように、司馬さんが演出したような気がしてなりません。
「張良以外の助言を聞いた失敗」が引き起こした大舞台【鴻門の会】
この「秦都攻め入り〜占領〜鴻門の会」の一連シーンでは、先に秦都に入った劉邦が、後からやってくる楚軍本体の項羽を入れまいとして関を閉ざすという大失策をしてしまう。
張良がそばにいればこんな決定はしないはずですが、戦争が終わって彼を遠ざけた影響がさっそく出てきたという点が強調された抜群の演出です。
これに激怒した項羽は劉邦を攻め滅ぼすつもりで軍勢を整え、翌朝の一大攻勢を企図し、それを知った劉邦が慌てふためく。
そこまでの状況に陥って、劉邦はようやく張良を思い出した、という展開です。
「戦争屋」を遠ざけて、いったんは張良の株を下げたように見せる。
しかしそれは、高く飛び上がるために深くかがむような予備動作にすぎない。
ここから一気に張良の重要度を、もはや二度と下がらないほどに高めてしまう司馬文学の真骨頂が始まります。
ただの再登場じゃない、「切り札を手持ちにしながら控えめに」の演出
いざ火が付いたように探しても、張良はなかなか見つからない。
実は張良はこのとき極秘にある人物と会っていたので、普段よりいっそう探しづらい状況にあった。
読者&劉邦は、張良の身の処し方(司馬文学)の術中に嵌り、ますます身を乗り出す羽目になる。
張良が会っていたのは、まさにこのピンチから脱するのにあつらえむきの、項羽陣営の重要人物である、項羽の叔父・項伯です。
これは考えてみればとんでもない話で、項羽にすれば翌朝の対戦相手の陣営に、自陣の人間が訪れて密談しているなんて内通もいいところ。
即座に死刑に処してもおかしくないわけですが、血族の長者に対する長幼の序を重んじる項羽にとって、項伯は特別な位置に立っているのがまた劇的です。
かつて偶然ながらその項伯を助け、義兄弟の契を結んでいた張良。
彼の奇運が光る瞬間です。
かくして張良の命だけを救おうとする項伯に、劉邦は恥も外聞もなく泣きついて、ついでに自分の助命も嘆願する。
直前に張良をぞんざいに扱った劉邦が、この事態によって下風に立つ様子を見た我々にとっては、張良がいったん下がったがゆえに、よりいっそう彼の姿が大きく見える瞬間です。
出席しただけですごいと言われる大舞台
問答無用に殺されるはずだった劉邦ですが、この出来事が間に挟まったがゆえに【鴻門の会】という舞台がセッティングされる流れになる。
読者の脳裏に、華々しく張良が躍り出たわけですが、彼のフィーバータイムはむしろこれからです。
司馬文学はここで畳み掛けてくるのです。
大舞台となった【鴻門の会】
出席者はもちろん項羽と劉邦。
その両者を取り持った項伯と張良。
そして、劉邦を亡き者にしたい項羽の謀将・范増
たった5人の会席者に名を連ねた「劉邦の客」にすぎない張良。
このとき項羽はすでに劉邦を許しているが、范増は執拗に劉邦を殺害しようと画策する。
次々に殺しの仕掛けを試みる手をかいくぐって劉邦を会見の場から逃がし、しれっと挨拶して会場を後にする張良の手際の良さは見ものです。
このスリリングな展開は『項羽と劉邦』の中でも指折りのシーンではないでしょうか。
しかもこれは張良自身が現場に立ち、その身をさらしつつ敢行している。
後の張良への評価である「謀を帷幄にめぐらし勝ちを千里の外に決する」なんて、とてもそういう状況じゃない。
膠着状態を打破するために劉邦の用心棒・樊噲を無断で会場に呼び入れるのも、項羽の気性を考えたら賭けでしかないのだが、その掛けにも勝利している点、企画者としてこれほどの修羅場はない中で、ものの見事に実績を上げたと言ってよいでしょう。
(これらのシーンはすべて『項羽と劉邦・中巻』に収められています)
とうてい「メンブレを起こすめんどくさい彼女」なんて表現は当てはまらないので、当時としては充分すぎるほどの英傑感が強調されていて、それでいて女性的という完璧なイケメンキャラだったはずなのですが、このへんは時代の流れによるイメージの変遷というやつなのでしょう。
というより私が勝手にラブコメ感を当てはめただけですが・・