何回か前の記事で、劉邦に仕えた主な臣下を将棋の駒に例えてみました。
張良と蕭何は「金」
韓信は「飛車」または「角」
陳平は「銀」または「桂馬」
こういう「当てはめもの」は、歴史好きには楽しいものですね。
一方、やはり何回か前の記事で、秀吉の帷幕で活躍した「両兵衛」こと竹中半兵衛と黒田官兵衛を張良と陳平になぞらえていた歴史解説書のことを書きました。
そうするとやってみたくなる「半兵衛と官兵衛は将棋の駒に例えると何になるか?」について、少し書いてみましょう。
半兵衛と官兵衛は秀吉の「張良・陳平」
冒頭の記述に従って考えるなら、張良は「金」なので竹中半兵衛も「金」になり、黒田官兵衛は陳平に倣って「銀」もしくは「桂馬」になってしまう。
しかし、どうもしっくりこない。
官兵衛が銀だとか桂馬というのはまだ分からないこともないけれど、竹中半兵衛が金というのはなぜか飲み込めない。
半兵衛は短命で、秀吉の帷幕に居た期間が短いため、秀吉をすぐ近くでガッツリ支えたという印象はあまり持てず、どちらかといえば斎藤龍興への意趣返しで稲葉山城を奪い取ったりした戦闘芸術家みたいなイメージのほうが強いです。
諸方を飛び回る秀吉に代わって長浜城を守る守将であった点は、劉邦に代わって関中を守った蕭何に似ています。
しかし、秀吉の行動が近畿地方や中国地方(他に四国地方)といった近距離圏内の動きであるため、良政を布いたり補給に任じたりといった役割を本格的に担ったわけでもなく、規模という点では小さなものになったゆえかもしれません。
そもそも秀吉は「信長の駒」
というか、そもそも半兵衛と官兵衛を同時に幕下に置いた頃の秀吉は「玉」じゃない。
そのせいで「両兵衛」を将棋の駒に例えるときに混乱があるのかもしれません。
秀吉の播州攻めの頃の「玉」といえば、やっぱり織田信長。
無意識にそこを起点に考えてしまうので、秀吉はせいぜい飛車か角
秀吉は、諸事ものにうるさい信長に仕えた将の一人として、前線から安土へ何度もとんぼ返りしていたようでもあり、そうすると、敵陣と自陣をひとっ飛びに往復できる駒としては、やはり飛車か角が妥当な気がします。
大駒で攻めを行う場合、「金」を側に置くというのがどうにも異質なことになってしまう。
自陣に置いた角ならばともかく、”攻め” を担当する秀吉を大駒とするならば、そのそばに置く他の駒は、あくまでも攻撃にあたって大駒に協同する役割のものとなる。
将棋では「攻めは飛角銀桂」というくらいですから、敵陣に攻め込ませる秀吉に付ける駒としては、張良や蕭何の「金」に相当する補佐役は、秀吉には存在しなかったと考えたほうがしっくりくる。
じゃあ、半兵衛は何なのだろう?
実はそれ以前に思うのが、信長にとっては秀吉は別に大駒ではなかったのではないかというドラスティックな仮説です。
「替えの利く秀吉」~ by信長
信長にとって秀吉は重宝する家来ではあっただろうけれども、秀吉が居なければ天下布武は成し得ないといった依存は、毛ほどもなかったでしょう。
信長は「自分が居れば天下のことは成る」と考えていて、たとえ秀吉が毛利との戦いで死んでも、別の者を充てればよいだけのことだと・・
いわば斎藤攻めのときに橋頭保にした墨俣を、今度は毛利攻めで再現しているだけのことで、そういう意味では秀吉はいわば将棋で言う ”垂れ歩” のようなものであり、「敵陣近くに置いた ”利き駒” 」に過ぎなかったのではと、個人的には考えています。
細かいことを言えば、竹中半兵衛は秀吉の部下ではなく信長の直臣で、秀吉の元へは「寄騎」として赴任しているにすぎず、黒田官兵衛に至っては織田家の家臣ですらない。
「官兵衛のほうが張良に近い」という見方もできる
この時期の官兵衛は、主家の小寺家に仕える家老。
姓も、殿様の「小寺」を頂いているので正式な名前は「小寺官兵衛」
のちに謀反を起こした荒木村重が逃亡し、当主が村重に通じていた小寺の家が崩れるまで、官兵衛はれっきとした小寺家の家臣です。
この点は、むしろ官兵衛のほうが「金」である張良に近いと言える。
韓の王に仕える貴族の張良が、当初は劉邦の客分であり、帷幕に連なりながらも部下ではなかったという点で、じつは官兵衛の立ち位置が張良と類似しているという面白さがあります。
いずれにせよ、織田信長という存在があってこその人物相関図を元にしないと、秀吉が「両兵衛」を左右に従えた時期はありえないので、私がいかに頭をひねっても半兵衛と官兵衛を将棋の駒に例えることは難しく、それどころか秀吉が「歩」扱いにもなってしまうため、『項羽と劉邦』からの流れでこれを論じるのは困難であるという結論に達しました。