このシリーズで「本当の ”番外編” 」と題した記事といえば、美味しんぼ第30巻の「大食い自慢」の話に派生したとき以来です。
『蘇る金狼』の話にふれないまま終わる記事特有のタイトルですが、今回も別作品の話に全振りするので同様のネーミングにしました。
前回記事の最後にふれた、食事系小説(?)『蘇る金狼』を凌ぐ「長尺のすき焼きシーン」が描かれている小説について考察しましょう。
まさかの伏兵 ”井上靖”
中学1年生のときに国語の教科書で知った作家・井上靖さん。
井上さんと言えば『敦煌』や『天平の甍』などが有名で、それらの作品で知っている人が多いでしょう。
もちろん「食事シーン」という点での話題性とは無縁で、大藪春彦さんとの比較対象になりづらい作家です。
しかし私にとっては、井上さんの ”自伝的小説三部作” のうち、中学以降の時代を描いた『夏草冬濤(なつぐさふゆなみ)』と『北の海』の2作品については、特に食事シーンが凄まじく想像を掻き立てる逸品です。
そしてこの2作の比較で言えば、主人公が旧制中学を卒業した大正15年3月からの約半年間を描いた『北の海』がいちばん好き。
食事シーンのことは除いたとしても、これは良書であると思っています。
特定のコンセプトがあるわけでもなく、これといった起伏もない日常が描かれているだけにも拘らず「この続きは?」と、続編を強く望んでしまうほどの中毒性があります。
この ”自伝的小説” 、続編が出なかったことがつくづく残念でした。
他に井上さん自身を描いた作品として『あすなろ物語』がありますが、あれではまったく食い足りなくて、「これじゃない感」が強すぎるというのが正直な感想です。
「北の湖」ならぬ『北の海』
この『北の海』がかなりの飯テロ小説であることは、あまり知られていないと思います。
ひょっとしたら私だけの見解かも知れません。
ですがこの作品、そのつもりで読むとよくわかるのですが「なぜそこまで必要?」というくらい、メシを旨く食べている描写が多い。
・・というか、「そのメシ、旨そう」と感じる書き方が冴えているのです。
それでいて、さほど食事を強調した風ではないところがまたがすごい。
日常感しかないのに、なぜか ”食” が存在感を持って活き活きと描かれている。
この作品では、中学浪人の洪作少年が金沢の志望校(第四高等学校)へ行き、柔道部の夏稽古に参加する話にページ数が最も割かれているのですが、ここでも随所に飯テロが描かれます。
そのひとつとして「すき焼きを食うシーン」がある。
ここが、『蘇る金狼』第18日目の ”朝倉が3人前のスキ焼きを喰らうシーン” と対比したい部分です。
金沢で「まぐさ」を食う
長かった夏稽古が終わり、仲間(というか先輩)3人と伸びやかな気分で街歩きをし、最後にすき焼き屋へ入る。
彼ら4人が注文したのは「牛肉を8人前、まぐさを10人前」です。
まぐさ?
どうやら ”まぐさ” というのは野菜のことらしいのですが、私にとっては初めて聞く言い回しでした。
作中の洪作少年も同様で「”まぐさ” ってなんのことですか」と質問し、そこではじめて説明されます。
金沢の方言なのか、あるいはこの時代で多少世慣れた学生特有の言い回しなのか不明ですが、それにしても「まぐさ」って・・
当時中学生だった私は、馬が食べる飼い葉のことを想像しました。
それを「自分が食べる野菜」に当てはめるとは・・
この、ざっかけない言葉遣いにはリアルな大衆感が溢れていて、単に「野菜」というよりも、よほど想像を掻き立てます。
「そう、こういうので良いんですよ。俺には」
と、五郎さんならモノローグしそうな、なんとも趣のある表現ではないですか。
「8人前の牛肉」を想像する
ちなみに『孤独のグルメ』で五郎さんが頂いたすき焼きといえば、私はシーズン5の最終話「東京都豊島区西巣鴨の一人すき焼き」が一番記憶に残っています。
この時の1人前を参考までに示すとこんな感じ。
大判の肉が6枚(?)と、焼き豆腐に長ネギ、春菊としらたき、それとエノキといった各種の野菜(まぐさ)が皿に盛られ、それにご飯と味噌汁、卵がついています。
この【上州牛すき焼き定食】の値段は2,500円ですので、これぐらい食べでのある ”1人前” があってしかるべきでしょうね。
洪作たち4人のうちふたりは帰郷のための仕送りを受けたばかりで、この日はお金をたんまり持っていたことが書かれており、金沢を去っていく洪作の送別会に奮発したことは想像に難くありません。
卓上の景観はいかに・・
ということでこの「上州牛すき焼き定食」のビジュアルを基準に、洪作たち4名が食べたすき焼きのことを考えてみます。
”基準のビジュアル” によれば
1人前の肉=大判の肉6枚
1人前のまぐさ=焼き豆腐/長ネギ/春菊/しらたき/エノキ
ということです。
洪作の送別会は4名で催され、オーダーは「牛肉を8人前、まぐさを10人前」ですから、一人当たり「肉は2人前、野菜は2.5人前」を食した計算になります。
腹をすかせた二十歳近い青年(旧制中学は5年なので)4人ですから、相当量を食べることが想像できますが、どうやらこのシーンにはご飯が存在しない。
代わりにビールを飲んだようです。
ここでまた、私の脳裏には別の情報がピョコンと顔を出し、想像に拍車がかかる。
「ご飯の代わりにお酒」が羨ましかった子供時代
『欽ちゃんのどこまでやるの!』で、VTR出演のゲストが5皿の料理を食べる順番を、スタジオ出演者たちが予想し、答えが出揃ったところで実食の映像を流して答え合わせするクイズがありました。
そこではたいていのゲストが5種類のおかずと共に白飯を食べているのに対し、たまに「ご飯の代わりに」といってお酒を飲むゲストが居ました。
子供の頃の私は、心のどこかでご飯を「義務」と感じていたところがあり、本当はおかずだけ食べたいのに、毎回ご飯も食べなければならないのが正直言って面倒でした。
そんな私にとって、『金どこ』でご飯を食べないゲストは「楽でいいなあ」と思い、そんな我が儘な振る舞いが許されていることに、大いな違和感をおぼえていた。
そして『北の海』のこのシーンに登場する4人の青年たちもまた、ご飯の代わりにビールを嗜んだわけですが、彼らはそのビールさえほとんど飲まず、とにかく食べまくる。
各自が肉二人前、まぐさ二人前半をあっという間に平らげてしまい、ひとりが「もう8人前頼むか?」と言うと、即座に「よかろう」と応答する場面が出てきます。
さらに牛肉を12枚、胃の腑へ収めてしまおうというのです。
それなら玉子ももう2個くらい追加してほしいかな。
しかし、彼らの体を心配した女中さんが追加注文に異議を唱えて4人前に抑えられ、結局、各自1人前ずつのおかわりとなりました。
滞在時間の想像
さて、ここでようやく時間の概念にふれてみます。
井上靖さんの小説も、大藪さんの作品と似て、数値にまつわるディティールにはシビアなところがあります。
たとえばこの四高柔道部の夏稽古は、7月15~17日に開催される高専柔道大会が終わって間もない7月20日から始まるとの記述があり、道場での練習は午後3時から開始と明確に書かれている。
終了時刻こそ書かれていませんが、学生たちはたいてい下宿している様子ですので、下宿先の食事時間が午後6時くらいとして、それに間に合うように切り上げていたと考えるのが自然な気がします。
焼き肉を食べに行った夏稽古最終日は、道場の掃除で普段より余分に時間がかかったため、洪作たちが街に繰り出した時刻は6時を回っていたかと思われます。
喫茶店で持ち金の確認を行い、その後は土産を買うなどのプロセスに割と時間がかかったことが、距離感なども含めて明確に記されているので、すき焼き屋の座敷に上がった時刻は早くても午後7時半頃と思われ、当時の夕食としては遅めのスタートだったことでしょう。
『蘇る金狼』での朝倉くんは夕方5時半にスキ焼きハウスに入店し、日本酒を軽く飲みながら3人前を平らげて店を出たのが夜の8時でした。
この1食に約2時間半かけたというのが前回の私の記事内での推測です。(もういっぺんリンク張っときましょう)
ということは、午後7時半に入店した洪作たちが朝倉の記録を超えようとするなら、10時より遅くまで粘る必要があります。
大正15年当時の金沢のすき焼き屋が、そんなに遅くまで営業しているか?
そのような考えも頭に浮かぶのですが、それは杞憂と化します。
なんと、洪作たちがすき焼き屋を出たのは午後11時。
朝倉くんの「2時間半」を軽々と破る「3時間半」という大記録を叩き出します。
ちなみに、ご都合主義的にすき焼き屋だけが町並みを無視してポツンと深夜営業していたわけではない証拠もあります。
先輩の一人が「遅くまで商売しているところを知っている」と言って一行を引き連れ、八百屋で下宿への土産として西瓜を1個ずつ買い、さらに表戸を下ろそうとしていた洋品屋でランニングシャツを8枚買って分配する記述があるので、町の商店にはこの時間でも動きがあったことがうかがえます。
この『北の海』という作品は井上靖さん自身の経験をベースに作られている物語で、作中に登場する主要な人物は実在の友人の名を少しもじった程度だったりします。
妙にリアルなのは、実際の記憶を元にしているせいかもしれません。
それゆえ、この日の町の様子も「これも実話かな」と思わせてもらえる楽しさがあります。
このあと、財布を預かっている先輩が「まだ金がたくさん残っている」と言い、「明日の夜もすき焼きを食うか」と提案。
連チャンの気配を見せてこの日の食事シーンがようやく終わるという胸熱な展開が繰り広げられます。
そしてそれは言葉だけに終わらず、明くる晩にはしっかり決行されるのです。
おそるべし、井上作品。
やっぱりこれは、飯テロ小説だ!