【感情会計】善意と悪意のバランスシート

善と悪の差し引き感情=幸福度

国家公務員の業績(?)と健康

ちょっとボヤいてみましょう。

話題沸騰の【財源】に関する私の考えです。

 

営利企業での売上や利益は、企業の成績にあたる「業績」を利害関係者に示さなければならないため、常に前期比で引き上げていこうとする姿勢はわかります。

ビジネスモデル的に無理ゲーなのを補うために、無茶なノルマや強引なコストダウンで現場に過重な負荷をかけるのは論外ですが、昇給等で従業員へのインセンティブを増加させていることとの因果関係で、営利企業の「対前年度比でプラス」には一定の説得力があります。

 

なぜ役人が昨対予算の増加で喜ぶのだろう?

私が官庁勤務時代に正直言って意味不明だったのが「獲得予算は対前年度比でプラスに」という概念。

 

シーリングで締め付けがあっても「その中でもウチの事業はなんとしても・・」みたいなことは、内容がどうというよりメンツみたいな印象があった。

これが、いわば不文律として息づいていることが、私個人の実感としては ”不自然”。

何言ってんの?という感じ。

(怒られるから口に出しては言わなかったけれど)

 

取った予算を使う能力(消化器の能力)の不全

個人的な思いを言えば、私は自分の所属部署の予算が増えるのが大っ嫌いだった。

 

その「増えた予算の会計的な執行実務の末端」を課されるのが、主に私達ノンキャリアの下っ端職員だったという直接的な原因もありますが、それ以上に気持ちが悪かったのが「消化能力を超える食物摂取」という印象があったから。

 

ちょっとあり得ないほどのオーバーフロー。

入ってくる分量に対し執行が到底間に合わないのに、そこへ補正予算の枠が示されると「予算取りのために何か事業を考えろ!」と指示が飛ぶ。

食べたもの(予算)から充分な栄養(国益)を生成できないのなら、どんなに高価な食物(前年度増の予算)を取り(摂り)入れたとて、健康な生活は得られない・・

 

・・と、こんな具合に「役所には、予算を有効に使う能力がない」ということを現場で感じつつも、それを言っても寄って集って潰されるだけということは、役人を辞めた理由の大なるものでした。

 

翌年度予算を削られないための執行 ⇐本当にこれでいいの?

身の丈に合わぬほどの過剰予算だというのに、その一方で「不用(使い残し)を出して翌年度の予算を削られないために」というモチベーションで組まされる計画が薄っぺらくなるのは当然の流れと言える。

 

予算を得た以上、結果を出さなければ立場がまずいことになるのは民間でも官庁でも同じですが、稼ぐ概念のない役人の『結果』は、民間のそれとはおもむきが異なる。

ここでいう『結果』とはたとえば「会計課に契約締結の起案書が通った」という輝かしい成果だったりする。(もちろん皮肉です)

 

使えないシステムも役人文脈では「結果を出した」と言える

厚労省が作ったコロナ関連のシステム「COCOA」の失敗が取り沙汰された時期もありましたが、起こるべくして起こった失敗とも言えるし、それ以上に「当の役人はあれを失敗と実感していないのでは?」とも考えています。

 

効果のない支出のためとはいえど、現場の・・それも下っ端の職員などは、さぞ大変だったろうなと労う気持ちもあったりします。

 

ちなみに、前年度比で予算が増えて喜んでいるのなんて、執行実務に携わらない上の人間くらいではないかと思う。

自分の部局課に付いた予算を ”業績” だと、病的に信じ込んでいる一部のエリートが頭脳を担当している政策において、食べたもの(予算)から栄養(国益)を生成し、質素(節約)ながらも健康で長生きできる幸せな身体(国家)の青写真は描かれないなと・・

 

財源がどうのこうのという話を聞くたびに気持ちが暗くなる理由はこれかな・・

 

健康な身体を得るための生活パターンを失った(というか最初から知らない)人間が「高価なものを口から押し込みさえすれば健康になるんだ。だからもっと高価なものを食わせろ!」として、国民からの供出を募っているかぎり、歳出の見直しなどは構造的に無理でしょう。

 

最も必要なことを手掛けない前提での【財源】が、金科玉条のようになってしまう。

 

役所の予算は「業績」じゃない。国家公務員がそれを「手柄」にすると逆に国を損なうのだが・・