【感情会計】善意と悪意のバランスシート

善と悪の差し引き感情=幸福度

国家公務員の業績(?)と健康②

「もっと予算を。今よりももっと!」となぜか渇望するエリート官僚。

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しかしその役所内の実態といえば、膨れ上がる委託事業や請負事業という「相手のある仕事」を完結させるために、下々の者どもはひたすら疲弊している。

 

取りすぎている予算の「後始末」のために・・

 

<この記事では【会計実務に限定した話】に終始しますのでそのつもりでお読みください。各省協議や法的・専門的課題、そして国会関係はまた別のボリュームがありますが無視します>

 

「言うだけ仕事」と「相手と協同する仕事」

膨れ上がる予算が、請負や委託の事業に向くのはよくある話です。

 

しかし、既存事業のⅠ契約あたりの金額が増えるならまだしも、契約件数が増えるとなれば、そこには必ず契約相手が発生する。

各々との間で、目的とプロセスの合意やプライシング等々の事前交渉や書類の授受、その後の相互伝達といった関係性が、件数分だけ増えることになる。

 

量の増加は質の低下へ・・というか気力と体力の限界で品質が下がる

こうなると一つ一つの事業内容を大切に取り扱うことは二の次三の次で、ひたすら追われる日常が始まる。

 

というのは、交渉や伝達にかかる時間が長くなると、私のようなノンキャリの下っ端が各課を回っては「早く起案書を出してくれ。会計課にせっつかれてるから」と手厳しく、そしてしつこく督促する。まるで借金の取り立てのごとく。

これではまともな仕様書や積算書が一発で出てくるはずもなく、私は間違いの箇所に貼りつけた付箋だらけの起案書を突き返し、担当者を呼んでは「随意契約理由書」というファンタジー作品の添削指導をする。(思い返せば20代の頃にそんなことを毎日やっていた)

 

私自身もそんな ”事務推進対象” を多数抱える一方で、調度品購入や会議費・旅費計算といった日常的業務と、大蔵省(財務省)の作業通達で夜明かしの日々を送るため、「事業の意義」なんかより「会計的なパススルー」を最優先にして辻褄合わせに奔走する。

 

偉い人の居る意味?

仮にエリート官僚が「頭部」だとして、組織の下のほうの動きがこれでは、あたかも両足とも複雑骨折に靭帯損傷とでもいうべき状態。おまけで肉離れもつけときまっせ。

 

その状況なら普通の人は「入院もやむなし。まずは『立って歩ける程度』を目指して、活動を控えて安静を心がける」となるでしょう。

 

しかしながらここで「もっと高価な靴を履けば早く歩けるようになる。予算が足りない!もっとだ!」と絶叫するのが ”頭部” である。

足りないのは予算執行する労働力であることは、現場の下っ端にはありありと分かる。

 

本来目指すべき成果(国利民福)のためには、官庁という組織体の健康度を回復させてなんぼのはずで、「そこを考える頭部」であることをずいぶん期待したものだったけれど、当然ですが一顧だにされない。とうていそんな空気感はない。当たり前ですね。

 

足りないのは『予算』ではなく・・

とにかく「足りない、足りない。もっと予算が要る」と議員(省庁内なら大臣)にレクチャーする。

 

ちなみに私が教わった言い方では「レクチャー」ではなく「ブリーフィング」

 

上司になぜですかと尋ねると「偉い人に『レクチャーする』だと憚りがあるから『ブリーフィング』って言い換えるんだ」と説明を受けた。ゆえに役所内では年がら年中「大臣ブリーフ」という単語が飛び交う。

 

さきほど足りないのは「予算執行する労働力」と言ったが、それより足りないのは議員の頭だと言いたくなる。しかしエリート官僚にとっては議員の頭が足りないことはよほど都合が良いのか、自身の両足複雑骨折の身体をおしてでも、さらに高価な靴を買うための金が足りぬと半狂乱で叫び続ける。

だから【財源】が足らないかのように感じるんだよ!

思わされてるだけなんだって!

 

・・と、私は最近の総理答弁でされがちな「財源をどうするか、これが私は最も目を逸らしてはならぬ現実であると認識しております」みたいなことを口にするたびに怖気が走る・・