A:「無駄な事業をやめて行政をスリム化すれば【財源】 は作れるんじゃないですか?」
B:「じゃあ聞くけどさ『行政のスリム化』って具体的にどういうこと? まずそれを説明して!」
日常的な会話の中で唐突にこの返しをされたA君は、内容以前に、その叩きつけられるような語調に思わず黙ってしまう(強引に黙らされる)。
このようなストレスは、迂闊に政治向きの話をしたときに起きやすそうですね。
私のようなノンポリは特にそうです。
なんの気なしの会話の中で、こんな場合の「二の太刀」を準備する気分で話してはいないから、こうなるのも自然な形です。
物価高に追われ、常に生活防衛のために気を回し続けなければならない小市民が、ちょっとしたカタルシスに浸りたいがための雑感として、たまにはA君みたいな意見を言ってみたくもなるでしょう。
そんな弱者を相手に ”論破” をして喜ぶB氏みたいな人もいるようですが、A君も感想を言うたびにいちいち二の太刀を用意しておかなければならない論客でもないので、別に論破されてもいい・・と、私などはそんな風に考えてしまいます。
どうせ「右から左」なら・・
ちなみに【財源】に関連する私の持論は、その前提として「コントロールの利いていない省庁予算が多すぎる」という実感から発しています。
起案文書を作る事務作業の時点から関係する担当者たちの気力・体力が限界を迎えていて、その後の監督指導にまで手が回らない。
高らかに謳い上げた概算要求の事業内容や、起案文書の字面でぶち上げた計画を現実のものにするには、あまりにも事業担当者たちのマンパワーが少なすぎるので、竜頭蛇尾のサンプルを量産しているような気分になる。
まずあの粗末な使い方を何とかするべきではないかと。。
「カネが回れば良いだけなら『官庁』を挟まなくても良いのでは?」
公共支出が多ければその分世の中が潤うという考えは分かるけれど、予算執行プロセスがあんな体たらくなら、いっそ事業を組まずに受託先や請負先に流して「自主性に任せる」と得意の丸投げをやったとしてもさほど変わらんと思う。
われわれ下っ端公務員側も、事業として局内決済を通すまでに、まずは事業担当者たちが作る書類に対し「こんな内容じゃ会計課は通らない」「いや、そこを何とか・・」と喧々諤々やる。
その後には会計課と「こんな内容では認められない!」「いや違う!こんなにも意義のあることなのだ!」と現実を盛りに盛った装飾のかぎりを尽くした文章をこしらえ、あとは担当者間のパワーゲームで渡り合う。
そんなことのために徹夜を繰り返すという「無駄なプロセス」を省き、もう少し健康的な働き方がしたい。
これは、局の会計担当者をしていた3年間だけで、関連の起案文書のチェックを千件以上担当していた底辺公務員の視点です。
(当然他の部署でも予算執行に関わっていましたが、やはり会計専門のポジションが桁違いでした)
公務員にPDCAはあるのか?
前回、前々回と、国家公務員が「これをするから予算をくれ」というときの説明材料となる【予算要求の内容】と、【実際にその予算が執行されたときの内容】の突合がされないのが疑問だと書きました。
預かった税金で運営しているのだから、その検証と発表は必要なのでは?・・と。
会計検査院でもこういう切り口では検証されない一方、予算を示達した側である財務省からも、各省庁で行われた実際の執行内容は問われない。
我々(各省庁)のほうでは、不用と繰越に気をつけておけばよい。
私の周りでも「要求予算と執行予算の突合」などというトピックは語られたことがないし、そのような仕事をふられたこともない。
結果の検証は、部分的とはいえ会計検査院がするというスタンスだし、PDCAを自分たちが行うという概念もないからでしょう。
もしやったとしてもお手盛りの結論を出すだけ・・というか、”出した結論” は次年度事業の仕様書や実施要領の中で「今年度も実施する理由」として記述されるのが関の山だと思う。
罵倒と洗脳
ゆえに、予実比較などということを質問すれば「バカ言ってるんじゃない!」と罵られるか、もしくは ”いかにその考えが見当違いか” を、ハイと言うまで滾々と諭されそうな雰囲気だった。
だから、財務官僚が議員にやっていると言われる ”ご説明” なるものが、私にはものすごくリアルなものに感じられます。
自分が代議士として何をすれば良いか自分で決められない議員などは簡単に言いくるめられ、官僚によって植え付けられた理屈を、まるで自分自身の拠り所にするようかのような「政治的スタンス」になるでしょう。
だから官僚の操り人形になるのだ。そんなものは「政治的スタンス」とは言わない。。
役人と話す機会を持とうと思うなら、我々のような高卒ノンキャリ公務員と積極的に語ったほうが、まだしも市井の徒の感覚を多めに取り入れられまっせ⋯