国の予算が過剰なのではないか?・・という問題。
税収が増えているのに政権担当者たちは「足りない、足りない」と言い続け、「減税するなら別の財源を」というステレオタイプを繰り返し、国民もそのムーブにすっかりノセられている。

まるで、【財源】を考えられないと、国民負担が重すぎる問題を考える資格が無いかのような、あたかも門前払いされている錯覚に陥っている方も多いのではないでしょうか。
私は一介の末端労働者なので難しいことはわかりませんが、「減税するためには財源(国民からの別徴収)が必要」という物言いにはカチンと来る人間ですので、そのことだけでも言いたいと考えます。
コントロール可能な金額だったのはいつの時代のことか・・
「予算をくれ、とにかく予算をくれ」と要求する中央省庁には、そんなに予算が必要なのか?
これに関して言えば、中央省庁で予算決算(会計)を担当していた身として「もっと予算をくれ」という役所の姿勢については明らかに間違っていると思う。
なぜなら実務オペレーションが全く追いつかない。
どこかの首相のフレーズをお借りするなら「全く(☓5)追いつかない」
国の仕事の中で「委託事業」や「請負事業」という言葉を聞く機会は多いと思いますが、実際にこれらの事柄が予算に占める割合はかなり多い。
継続事業の予算は徐々に削られていくという一面はあるものの、その一方で新たに発生するものもあるし、補正予算で臨時に組まれる事業も多い。
そして、事業には事業担当者(起案者)が居て、さらにその計画を金銭の支払いスキームに乗せるための会計担当者たちが局内と会計課に数名ずつ居て、一本の起案文書を中心にこれらがセットで動く。
起案文書がスンナリ通ることはまず無く、幾度も突き返される事業担当者はいつしか事業目的よりも、「会計検査院に指摘を受けないように」という我々側の価値観に押されてしまっているとしか思えない受け答えになることが非常に多かった・・
20年以上前の話ではあるが、これに関してはさほど変わりがない気もするなぁ。
お上のくせに「お上がコワい」のあの感覚が、そう簡単に変わるとも思えない。

一人の担当者が抱える一本の事業を動かすために、コアな担当者たちの内輪の事務作業だけでもかなりの業務量が発生しますが、これはあくまでも自分たち側だけの事柄に過ぎない。
ここに当然、契約相手側とのやり取りが加わる。
委託や請負を抱える担当者はたくさんいますが、一人が何件も担当するケースも多い。
それだけ外部関係者の数(人間関係)も積み上がっていくことになります。
一方、会計担当は全件を担当しながら、他には旅費や会議費といった一般の執行事務と、予算要求に係る財務省(大蔵省)の作業通達、それに会計検査院対応なども行う。
こうなってくると足りないのは「金額」ではなく、「委託や請負を適正に執行する業務オペレーションの担い手」です。
それが足りておらず、かつ使い切ることが至上命題の単年度決算だから、予算を消化すること自体が目的になり果ててしまう。
抽象的な言い方で恐縮ですが、この状況における予算というものを別な表現にすれば「消化能力をはるかに超える食事量」であり、これは私が役所を辞めた理由の大きな要因です。

とにかく気持ちの悪い予算執行だった。「使えないなら穫るなよ。結局捨てるように垂れ流してるじゃないか」と。
現在の「税金を取ってから配るなよ。最初から取らなきゃいいだろ!」というトレンドに通じるものがありますが、まさに「取ったこと」によって起きている弊害かなと・・
制御を利かせる能力が伴っていないのに、己の力量を超える予算をとるから粗末な使い方になるのだ、というフレーズは、私は公務員時代から使っていたのでいい加減ウンザリです。
江戸時代の官制では、一つの仕事を複数名が担当していたと聞きます。
それを非効率と言うのは簡単ですが、逆に一人が大量の仕事を押し付けられるせいで中身が薄くなり、かけた予算の大半が実質的に垂れ流される現代の官庁の仕事も、過去のことを悪く言えた義理ではないと思う。『税金効率が悪い』とでもいうか・・
他者にさせる仕事の責任範囲
たとえば、現役時代のざっとした理解で言えば【請負事業】とは「指定した成果物が得られればよい契約」で、【委託事業】とは「他者に対し、国に代わって ”国の事業” を行わせる契約」です。委託は補助金の一形態なので必然的にそうなります。
そういう意味では、前者はプロセスを問わないが、その成果が計画予算に見合う出来であることについては責任を負うものであり、後者は実行プロセスに対しても管理監督責任を負うものです。
プロセスに対する責任ということでいえば、たとえばオペレーション不備に対する指導や、進行上に存在するムダの排除を実施してコストを抑える。もしもコストを変えないなら、その分だけ成果を高める役割を勤め上げるのが「委託事業担当者のおしごと」ということになる。
そして、民間企業と違って事業は基本的に永続を前提とせず、常に年度内に期限を切られた中で一定の成果を上げなくてはならないプロジェクトベースで実行される。
タイトです。シビアです。

おまけに実施期間の途中で担当者の交代があり得るのも特徴(というか前提)。
私や、私の周囲の人たちもそうだったが引継ぎは基本的に半日とか1日で済ませるので説明はスキームのみ。細かなニュアンスまで踏み込んでいる時間はない。
前任者が転勤や出向のため異動後に連絡すら取りづらいケースも多々あるほか、前任者退職の場合などは、辞令前の勤務開始が無いので着任前に出むいて引継ぎを受けることができず、発令後に ”業務に従事していなかった人” から説明を受けるのが当たり前だった。
とにかく一周(一年)経つまでは、どんな隠し玉があるかもわからない。
そもそも起案者たちは国会や関係省庁連絡会への対応、自治体や事業者相手の行政実務などを抱え、委託や請負はあくまでもワンオブゼム。金額が大きいからという理由で重点事項とはならない。
そんな状況の中で、一本の委託事業に専念するなどは物理的に不可能。
食物(予算)を消化して効率よく栄養(国利民福)に変える働きを成すために公務員になっているはずですが、事実上それはムリ。
さらに、国会で補正予算の話が具体化してくると「ウチの課も予算を取るぞ!」と、「予算獲得だけのモチベ」を発揮する上席がハッパをかける。官僚としてのハクをつけるために。
こういうのは大概キャリア官僚です。
ニュースメディアでは「国会対応に疲弊する公務員」としてキャリア官僚は被害者ポジションにいますが、私たちノンキャリアの視点では加害者と言いたいのがホンネである。
「構造改革」は観念じゃなく末端作業者の物理的要因を尺度に
補正予算話で世間が湧いている最中、キャリアの上司からの要請に屈し、今回の補正予算のテーマにこじつけて、とにかくそれっぽい ”△△事業” を企画させられる。
そしてその要求が通ってしまい、実際に予算を示達されてしまうと、ムリヤリに捻り出した ”△△事業” を元に、実際の事業契約を具現化させられる羽目になる。
しかもこれらのことは年度の途中で差し込まれるので時間的にはさらにタイト。
ルーティンの事業では開始時期を過ぎても契約が未済のままの委託があるというのに、そこへ追い討ちをかけられる。

こうなってしまうと、委託事業とすれば、妥当な成果を上げうる事業の管理監督なんて全くやっていられないし、「プロセスは丸投げでよい請負事業」であっても、もはや成果物の姿すら曖昧になり果ててしまう。
役人はもっともらしい理屈をこねるけれど、毎年やっている事業だって、「事業開始日前に所定の事務手続きがすべて完了しているか?」や、「誘引⇒締結⇒精算に至るまでの実務担当者の勤務実態が、適切な時間帯におさまるものであるか? 過度の重複業務にさらされていないか?」の尺度で計られたら一発アウトのケースがほとんどではないかと思う。
この手の話で「聖域なき〇〇」みたいな掛け声で見直しが図られ、実際には機能しない理由は、事業を観念で捉えるからだと思う。
末端の実務者の物理的要因で実測値を出せば、全く違った答えが得られると思います。
少なくとも、外側から眺めただけで分かったような気になっている国会議員などには、このあたりの現実感覚は期待できないというのが私なりの考えです。







