小人閑居して不善を為す、と言われます。
つまらぬ人間が暇を持て余すと良くないという教えですね。
たしかに、余暇を達者に過ごせる人は「出来た人間」という気がします。

一方、つまらぬかどうかはさておき、「組織」が暇を持て余すと、あまり良い方向に向かわないことが多いように思われます。
そもそもヒトの集まりが ”組織” ですから、出来た人間ばかりが居るとは限らない。
そんな人が暇を持て余すと、組織の目的を見失ったような派閥争いが起きることだってあるでしょう。
司馬史観との遊び方
初期の新選組に起こった派閥争い。
芹沢鴨が率いる芹沢派5名と、近藤勇が率いる近藤派8名。
最終的には一方の領袖である芹沢暗殺により決着がつきますが、『燃えよ剣』の影響で「新選組内部では近藤と芹沢の ”派閥間の抗争” が激しかった」と思い込んでいた私。
『新選組遺聞』を読んで新見錦のことが気になったのを機に、司馬演出によるバイアスが利いていない状態で、本当に「組織同士のいがみ合いレベル」で張り合っていたのか、もう一度自分なりに考えてみようという話の続きです。
司馬史観と呼ばれているものは ”司馬さんの演出”
あくまでも ”エンタメ” として楽しんでみましょう。
そんなに「ヒマ」だったかな? このときの新選組・・
「じつは派閥抗争と言えるほどのものは存在しなかったのではないか?」と私が考えた理由は2つあり、そのひとつは【時間的理由】です。

これについては、一般的な歴史記録に加え『新選組遺聞』の中の八木為三郎さんの話をもとに、出来事と日付を並べてみると分かります。
実際に並べてみましょう。
(ちなみに為三郎さんは当時の日記を残していて、それに基づく生々しい叙述がある出来事については青太字で示します)
文久3年3月13日 浪士組約230名、到着したばかりの京から江戸へ向けて出立
同3月15日 京に居残った芹沢らが会津藩へ浪士組預かりの嘆願に出向く
同6月3日 大阪で力士と刃傷沙汰(芹沢を筆頭に大暴れ)
同8月18日 禁門の変に参戦(先陣・近藤、中央・芹沢、殿軍・新見の隊列)
同9月5日か6日 新見錦切腹
同9月18日 芹沢鴨暗殺
同12月28日 野口健司切腹
⚠️文久3年夏の初め 佐伯又三郎、芹沢により粛清
こうしてみると、驚くほど芹沢たちの生存期間が短いことに気づきます。
(ちなみに文久3年の翌年が元治元年。池田屋事件(6月5日)が起きたとき、すでに芹沢は存在していません)

新選組は3月半ばの結成で、そこから半年のうちに二人の局長は亡き者となり、最後に残った芹沢派の野口健司もその年のうちに没し、”芹沢派” と称されるものが存在したのは1年にも満たない事がわかります。
暇を持て余したあげく組織が硬直化し、行き場を失ったエネルギーが身内同士の反目に向かうような時間的余裕は、無かったように思えます。
急増する隊士と市中巡察の任務は「組織」にとっては大変化
おまけにこの文久3年夏までの間と言えば、長州藩が尊王攘夷にかぶれて京都政界を牛耳り、ムチャクチャやっていた頃です。
不逞浪士も増え、京都守護職のお預かりである新選組は、任務として京の鎮護のため常に働いている。

やがて、長州のあまりの暴走ぶりを問題視した薩摩藩が、犬猿の仲の会津藩と手を握って長州を追い落とすのが禁門の政変であり、このとき新選組は会津藩の武装勢力として、その騒動に参加までしている。
外界の激しい変化にさらされている状況では、構成員同士が「あいつは気に喰わん」といった嫌悪の感情を持ったとしても、個人間での諍いはともかく、”派閥間の反目” や ”冷戦” なんてやっている余裕はなかなかできないでしょう。
そういった、つまらぬ内輪揉めが発生するには「ヒマになるだけの相応の期間」が必要ではないでしょうか。
少なくともこの当時の新選組に、そんな状況はちょっと考えづらい。
しかしながら『燃えよ剣』を読んでいると、芹沢のアクの強さと土方の執拗さが物語性として立ちすぎているせいか、彼らが共に過ごした期間がとても長いように読者(私)は錯覚する。
それゆえ、人間ドラマを色濃く思い描きすぎて、つい「派閥抗争」というステレオタイプな思い込みが成立してしまうのかもしれません。
これが、「じつは派閥抗争的色合いは、それほど存在しなかった」と私が考えた理由2つのうちの1つ目です。
<続く>







