草創期の新選組に、近藤派と芹沢派の内輪揉めが起きる時間的余裕は無かった・・というのが「じつは派閥抗争はなかった」という私の仮説理由2つのうちの1個目でした。
なにせ肝心の芹沢鴨がたった半年間しか存在しなかったうえ、その期間が実に忙しい。
「新屯所への移設」「隊士の大量新規採用」「増えた隊士用宿舎(間借り)の調達」「市中見廻りオペレーションの新設」など、発足したての組織に機能を持たせるための必須事項が目白押し。
近隣への交渉事やちょっとした小間使いなどには、八木家の家人や奉公人も使ったでしょうが、それでも13人の幹部たちは猫の手も借りたいほどに気忙しかったことでしょう。

さらには時勢が紛糾する中で、会津藩お抱えの武装集団として、各藩の勢力に伍していく体制を育て上げなければならない。
これには会津藩との関係を大事にする必要があり、藩の要人への密な接触が要る。
・・と、求めなくても刺激だらけの毎日であり、わざわざ内部抗争を起こすより、むしろ内部で結束が強くなっていくほうが自然ですらあります。
そんなわけで、わずか半年の間では、硬直化した組織が陥りがちな内紛は起きていないだろうというのが前回の記事で述べた内容です。
では、「新見錦の切腹は派閥抗争じゃない」と考えた理由・その2です。
芹沢鴨と新見錦は「それほど昵懇の仲じゃない」という仮説
一般的に「芹沢一派」は5人と言われています。
たいていの小説などでは以下の5人と相場が決まっている。
芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司
永倉新八が記憶を元に列記した「同志連名記」というものがあります。
幹部名が13人分並んでいるのですが、そこに記された芹沢派メンバーが上記の5人であることも影響しているのかもしれません。

たとえば「会津藩庁記録」などではもっと多人数が記されていて、これを元にするならば、芹沢派を5人と限定してしまうことに少し疑問が湧きます。
正確には「最後に隊から消えた(死んだ)野口健司から数えて5人目までが、一般的に ”芹沢派” と認識されている」という感じでしょうか。
新見錦のお株を奪う『佐伯又三郎』の存在
前回記事の中に書いた簡単な時系列列記の中に、あえて不自然な一文を差し込んだのですが、もう一度載せてみましょう。
文久3年3月13日 浪士組約230名、到着したばかりの京から江戸へ向けて出立
同3月15日 京に居残った芹沢らが会津藩へ浪士組預かりの嘆願に出向く
同6月3日 大阪で力士と刃傷沙汰(芹沢を筆頭に大暴れ)
同8月18日 禁門の変に参戦(先陣・近藤、中央・芹沢、殿軍・新見の隊列)
同9月5日か6日 新見錦切腹
同9月18日 芹沢鴨暗殺
同12月28日 野口健司切腹
⚠️文久3年夏の初め 佐伯又三郎、芹沢により粛清
一番最後に付け加えている「⚠️文久3年夏の初め 佐伯又三郎、芹沢により粛清」がそれですが、この佐伯又三郎の存在が実に興味深いのです。
為三郎さんのたくさんの記憶
新選組の初期メンバーがまだ、幕府が公募した浪士組(二百数十名)の一員に過ぎなかったとき、芹沢と近藤の宿所に割り当てられた八木源之丞宅の子息であった為三郎少年。
この為三郎さんの述懐によると「新見錦に関する記憶はまったく無い」
このことは以前の記事に書きました。
為三郎さんが言うには、八木家に寝泊まりしていた「芹沢派5人」の中に新見は居らず、確実に居たのは「佐伯又三郎」という若者だったそうです。
佐伯又三郎は文久3年の夏の初め、芹沢に粗相を働いたということで、芹沢によって粛清されたということも述べられています。
「佐伯さんはなぜ殺されたのですか?」と、為三郎さんは隊士たちに聞いて回ったものの、どうやら佐伯の誅殺については諸説あるようで、為三郎さんにも真の理由はわからなかったようです。
それでもただひとつ確実なのは、佐伯又三郎は芹沢の煙草入れの根付(キーホルダー的なもの)を盗んだということです。

これは為三郎さんの父上である八木源之丞さんも、近藤勇やその他の人から聞いた事実であるそうですが、そんなことより重要なのは、事件の真偽はさておき『佐伯又三郎』という人物に関する強い記憶が、為三郎さんの中に残っていることです。
ここまで来ると ”記憶違い” とは言えないレベルで、やはり新見錦は八木家に居らず、居たのはあくまでも佐伯又三郎であると考えて良さそうです。
さらに為三郎さんは、新見錦は斎藤一などと一緒に隣家の南部亀次郎さんのところにいたと証言していて、八木家によく来ていた斎藤のことは覚えているが新見は記憶にないとも言っている。
このことから、新見は八木邸に投宿していないだけではなく、八木邸自体にもさほど顔を出していなかったのではないかと想像します。
オヤオヤ・・そうなると私が当初抱いていた「新見は芹沢と昵懇の仲間」というイメージと随分違ってくるぞ・・
<続く>







