【感情会計】善意と悪意のバランスシート

善と悪の差し引き感情=幸福度

『願い』の五輪と「欲得」の五輪に気づかずに起きた分断

フリーアナウンサーの高橋万里恵さんが、東京FMのNews Sapiensという番組の中で、聖火リレーの是非とは別に、そこにかける個人の想いについて語っていたことが頭に残っています。

 

audee.jp

高橋さんの知り合いで、聖火ランナーになっている一人のご婦人のことです。

 

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「私は、子供の写真を持って、この子と一緒に走るんです」

この方は震災で、当時小学生だったお子さんを失ってしまった。

 

大きなショックを受けてしまったこのお母さんが、「聖火ランナーとして自分が元気に走り、笑顔を見せることで『お母さんはもう大丈夫だからね』と告げ、安心させてあげたい」という想いを抱くきっかけとして、聖火リレーが存在した事実がある。

 

聖火リレーに関するネガティブな意見が、全国に山ほど溢れていることは、高橋さんは十分すぎるくらいに知っているし、その言わんとする気持ちも理解している。

 

しかし、上述のお母さんのように、聖火リレーに「真の復興」をかけて、真摯に向き合う人も、たしかにいる。

 

その地に生きる人の生の声を聞いた身として、このジレンマの中で少し言いづらそうに話していた高橋さんが印象的でした。

 

 

メッキを見破れるか 

私も、過去に聖火リレーについて辛辣に書いたことがありますが、それはピンポイントに「スポンサー配慮のバカ騒ぎ」を指しています。

www.yomiuri.co.jp

 

本来「復興五輪」を掲げて始まった東京オリンピックは、被災地の想いを反映したものになるはずで、そこには上記のご婦人のような『願い』が込められるはずだった。

 

このご婦人は、震災で失った我が子へのメッセージを届けたいという『願い』はあるけれど、それは「欲得」とは全く性質が異なっている。

 

 『願い』をかける人は”細部まで自身が手掛け、努力する”
「欲得」で動くヤツは”細部を他人に丸投げ”の構図

震災で我が子を失った母が、聖火ランナーとして走る。

けれど、それによって利益を得るなどの「欲得」は存在しない。

 

今回の五輪は、『願い』と「欲得」が、これでもかとばかりに別物としてその姿を晒した、かつてない美醜が浮き彫りになった大会だったと思います。

 

前の記事で「協調と同調圧力は、ベクトルの形が似ているから判別は難しい」と書きましたが、五輪の大会における『願い』と「欲得」にも同様のことが言えると思います。

 

blog.dbmschool.net

詐欺は法律スレスレ、利権者はキレイゴトに悪徳を潜ませる

今回、開催を巡って国民の中に凄まじい分断がありました。

「欲得」にまみれた面々は、その分断に乗じてまんまと利益を得たことと思います。

 

おそらく、国民はわざわざ分断など起こさずとも、ほぼ皆一様に『願い』を持っていたと思う。

 

問題は「欲得」の腐臭を感じた人の叫びが『願いの否定』と捉えられたことに端を発していると思われます。

 

「欲得への怒り」を恐怖と感じた反対派 

五輪の美しい部分だけを意図的に捉える人から見ると、「欲得」を指摘する人は面倒な理屈を振りかざして恐ろしくもある。

 

これに対抗するには怒りなどの激しい感情を以てしなければ、ただただ萎縮する羽目になってしまう。

 

本来は『願い』を胸に同じ気持ちを持てるはずだけれども、景色の捉え方は人それぞれで、結果として分断を起こし、五輪に欲得を重ねて利権を追求する「全員の敵」の策略に乗せられた感があります。

 

時と場所をわきまえない「欲得」こそKYなはずだが・・ 

平時ならばまだ「カネを持ち逃げされた」程度で済む話かもしれませんが、現在は国民の生命財産を脅かすコロナ禍が並行しています。

 

『願い』と「欲得」のベクトルの形が似てさえいなければ、国民総出でオリンピック委員会にNOを突きつけ、腰の座らぬ政府を締め上げてでも中止や延期の決断をさせていたと思う。

 

なにせ、時の政権こそ『願い』と「欲得」の混同にまるで気づけない愚か者の集団であり、国民の民度の遙か下方に位置する程度の低い連中ですから、国民によって目覚めさせられる必要があった。

 

自然な国威発揚を妨げたスポンサー制度(欲得) 

そもそも、これだけ多くの「オリンピックを愛する人々」がいるのに、「スポンサー以外は【応援】を形にしてはいけない」などと罰則まで設けて規制をかけること自体、大多数の国民の『願い』を否定している。

 

学校や商店などで「がんばれニッポン、東京2020」みたいなPOPや幟を作って、市井の一般庶民が各々の立ち位置で応援の工夫をこらし、ときに競い、ときに賛同・連携する中からこそ、多様性に満ち溢れた真の国威発揚が生まれると思います。

 

東京オリンピックの価値は、そのときこそ最大限にその効果を発揮し、その五輪こそレガシーと呼ぶにふさわしい。

 

結局のところ本来最も攻撃されるべきは、分断した国民同士の同士討ちではなくて、何様かわからないが「勝手に五輪を応援するな」といびつな権利を振り回す連中だったはずです。

 

こういうところ、本当に狂っていると思う。

 

冒頭の「震災で失った息子に伝えたいメッセージのために聖火を持って走った母」のような人に利用してもらえる大会なら、協調のし甲斐もあるのだが・・

 

『願い』と「欲得」は違う。

『願い』のために五輪を使える人物が運営していないなら、そんな五輪はこの世に存在すべきではないと思う。