ヒャダインさんという方が、今年の五輪は直前まで反対論が強かったため、同調圧力が少なくて助かったというコメントを出しているネット記事を見ました。
古市憲寿さんという社会学者が、五輪を1秒も見ていないというコメントを出し、それもネット記事になっていました。
「こんなことが記事になるんだ・・?」と、正直言って不思議に思う……。
想像以上に”同調圧力”は、身近なところに蔓延ってるようだな・・
TVバイアスに無縁だと、人物の見え方が全く違ってくる
上のネットニュースについてちょっとだけ補足すると、私はヒャダインという方の生業をよく知りません。
この方を初めて認識したのは、しょこたんのYouTube動画で見たときです。
また、古市さんを初めて知ったのは「山崎玲奈の誰かに話したかったこと」というラジオ番組にゲスト出演した回を聴いたときです。(これaudeeでも配信されてるんやな。今さらやけど初めて知ったわ)
いずれもTVバイアスが全くかからない形で知ったため、私がこのお二方に対して抱いた印象は、世間一般のそれとはかなり違っていたはずです。
先入観なしでそう思うのか、前評判をあてがっているのか?
たとえば、その後のネット記事を読むと、どうやら古市さんという方は、かなりの変わり者らしい。
ですが、ラジオ番組で知った古市さんは、単に自分のスタイルを持った人というだけで、それなら古市さんに限ったことではなく、ゲストで呼ばれるような人は誰だってそうです。
もしも、TVが大好きでテレビ報道的バイアス全開な人が、私に
「古市ってさあ、ホント空気読まないよね。嫌だよねぇ〜、ああいうふうにはなりたくないよネェ〜! あなたも嫌いでしょ?」
と、”嫌いになれ圧力”をかけてきたとき、私なりの古市さん観と照らして不本意だったとしたら(好意的に思っていたら)、きっと圧を感じるでしょう。
ヒャダインさんは、運動が苦手で不器用だけど、そういうのが愛嬌になって好かれている感じの人。
その後名前を見ることがないので、上記の印象で止まっている。
この方に関する「あなたもヒャダインに対してはこう感じなさい」的な、押し付けの印象を持たせるようなバイアスの記事を見た記憶はありません。
とにかく、同調圧力に苦しむヒャダインさんと、同調圧力を気にしない古市さんの、五輪に対する意識は違うようで、それを知ることができたという点で、2つの記事をつながりで読めた価値はあったなと個人的に思えました。
私は同調圧力に気づいていない?
私はどっちタイプなのだろうか?
これはもう、考えるまでもなく古市さんタイプです。
私も「五輪は1秒も見ていない」です。
無関心ゆえの「完全自然体」
五輪に対しては、ブログでもずいぶん批判的な記事を書いてきた私ですが、それは単に「今、他のプラン無しに強行開催一択でやるべきことではないだろう」という意味で、五輪そのものの是非論とは全く別なものです。
ゆえに、意地を張って視聴していないわけではなく、少年時代から1度も五輪に興味を抱いたことがないだけです。
今回は開催が東京なので特別ですが、これまでは、五輪がいつどこで行われているかを全く把握しておらず、たとえば人との会話では以下のようなやり取りをしたことがあります。
私:「今回の五輪ってどこだったんですか?」
相手:「ロンドンです、エッ、夏のこと言ってます? それとも冬季?」
私:「いやどっちでも……アア、じゃ、直近の」
相手:「それならロンドンです」
私:「ヘエ、いつやってたんですか?」
相手:「去年です。見ませんでした?」
私:「いや、やってたの知りませんでした。それは夏ですか、それとも冬?」
相手:「・・・」
教えてくれる相手が絶対に熱を失うであろうこの手の対応を、私はずっと繰り返していますが、とにかく五輪関係の情報は頭に入ってこないし、すり抜けて頭に到達しても残らない。
これ、他人からしたら、どう映っているのでしょうか?(ということも気にならないくらい、私は五輪に興味がない)
「夢の国」に住めない
それから、高校2年のとき、急に遠足が催されたことがあります。
「高校で『遠足』かよ。そんなのあるのかよ?」と私は思ったのですが、なぜか同級生たちは私と同じフレーズを口にしなかった。
まだ”修学旅行”ならわかるけど、いい歳して(?)遠足ってさ・・
どうやら、2〜3年前に開演したばかりの東京ディズニーランドという場所へ行くというのが『遠足』の内容らしい。
しかし、夢の国の魅力(魔力?)にも全くの不導体だった私。
「なんでそんなトコ行くの?」
(絶対にファンから攻撃を受けそうなフレーズ・・)
断る理由もないので行ってみたところ、現地を見た私の感想は以下のとおり。
『当時はまだ多かった、”スーパーの屋上とかにある遊技場”のデカイ版』
(これ絶対嫌われる言い草だと思えるくらいの社会性はあるつもりです)
園内の食堂で食べたハンバーガーが美味かったことと、イッツ・ア・スモールワールドの水が生暖かった記憶だけを胸に、夕方近くには「じゃあオレ、バイトあるから」と告げてさっさと退場し、それ以来一度も行ったことがない。
別にアンチじゃない。興味がないだけなんだぁ!!
秋元プロデュースがピンとこないらしい
それだけじゃないぞ。
同じ頃に一斉を風靡したおニャン子クラブにも、私は当時ど真ん中世代だったにもかかわらず、全く興味がなかった。
夕やけニャンニャン おニャン子白書 (1985年4~6月) [DVD]
周りの友人たちは、寄るとさわるとおニャン子メンバーの話題を熱く語り合っていたが、私は夕ニャンを一度も見たことがないほどの無関心派だったため、話には一切入らなかった。
そして、時を経て同じ秋元プロデュースのAKBにも興味が湧かず、坂も同様。
よく聴いているラジオ番組のパーソナリティぐらいは認識しているが、ラジオなので顔はわからない(たまに番組HPで見ても覚えられない)。
同調圧力と「いじめ」の区別がつかん
などなど、「それで周囲とうまくやっていけるの?」と言われそうなほど、象徴的なものに対して完璧なまでの『ゼロ状態』を保っています。
それでも同調圧力を感じたことはありません。
周囲とうまくやろうと考えたことも、ないかもしれません。
同調圧力に屈しても「人間関係」は良くならない
私は、職場の人間関係の重要さを、ブログ記事としてよく書いているわりに、そういうところは全く無頓着です。
しかしそれは、職務上のコミュニケーションと、パーソナルなことにまで踏み込む交流とを全くの別物と考えているせいかもしれない。
「いじめ」なんていうのは、表面的には職務上の交流で発生するように見えるかもしれないけれど、実際には「パーソナル」な部分の表出ではないかと思う。
同調圧力も同じ気がします。
あれも「公」の台座においた瞬間に蒸発しそう。
同調圧力は「協調」が理解できないヤツのすることだと思うことから始めよう
職場で私がこだわっているのは社会的な意味での人間関係で、そこには「同調圧力」などという事象やテクニックは存在しない。
「協調」と「同調圧力」は、ベクトルの形は似ているので判別は難しいかもしれないけれど、少なくとも「協調」には「許し」とか「認め合い」が存在する。
そして「全体としての目的」が明確な形になっているのも「協調」の特徴で、特に第三者に開示して十分な説得力を持つ実証性や再現性、そして客観性がある(要するに科学的)。
私が世間一般の関心に無頓着ながら、それほど同調圧力を感じたことがない理由は、無意識のうちに”協調”の世界に生きているせいではないかと思ったりしています。
(それか、天才的なKYだからかもしれません)