【感情会計】善意と悪意のバランスシート

善と悪の差し引き感情=幸福度

『菜の花の沖』想像を掻き立てる紅鱒(ベニマス)加工

司馬遼太郎をよく知らなくても、船好きな人なら知っている『菜の花の沖』(実際に私の知人でそういう人がいた)

この作品は文庫版で全6巻ですが、我が家にあるのは2巻〜4巻だけです。

物語自体は全部読んだのですが、手元に残したのはこの3冊だけ。

 

なぜか?

 

5巻と6巻はロシアとの騒動に巻き込まれる政治劇になってしまい、私にとって肝心な「積み荷」や「食べ物」の話が描かれなくなってしまうからです。

そして1巻は主人公・高田屋嘉兵衛の陰惨な少年時代が描かれるシーンが殆どで、主な積み荷といえば樽廻船で兵庫から江戸まで運んだ「下り酒」ぐらい。

 

わざわざ文庫本を所有するほどの価値を感じないのです。

 

 

脂肪をたっぷり含んだ赤穂の塩は、最高の調味料

さて、今回少し掘り下げてみたいのが「紅鱒(べにます)」に関するくだりです。


塩紅鱒(ベニマス) 半身 甘塩

 

第4巻で、嘉兵衛が蝦夷地の人たちに混ざって、現地の生産行為に尽力するシーンがあります。

 

食事のときにこの光景を思い描くと、その時食べているものに独自のスパイスが振りかけられて美味度が増すという効果があり、私はこのシーンが大好き。

といっても実は私のイメージはひどく曖昧で、わからないところだらけ。

ですが、事の運びをなんとなく想像するだけで、とても豊かな食材の姿が意識の中で脈打つのです。

 

”鱒” と ”鮭” の違いは分からずとも

以下、引用が多くなって恐縮ですが、本文をいくつか紹介しながら見てみましょう。

 

食用として珍重されるのは、紅鱒であった。紅鱒は肉が赤く、一見、鮭に似ている。本鱒とはちがい、脂肪が多くはなはだ美味で、蝦夷地一帯ではこのエトロフ島が主産地であることを嘉兵衛はこの島にきてから知った。

「鱒」と「鮭」の違いは分かりません。

学術的にこの二つには差がないとする説もあります。

 

しかもさらに「本鱒」と「紅鱒」という2種類を挙げられると、知識の段階でイメージが追い付かない。

私はこのくだりを読んだ時点で、すでに目くらましにあった気分でした。

 

『塩を施す』・・この粋な表現たるや・・

当然ながら嘉兵衛は紅鱒を食品として浜で加工し、輸送した。
加工は、塩を施すことである。魚に塩をすることを、この当時、塩切とか塩引とかといった。

「塩を施す」

不思議な描写だと思いませんか?

 

「塩を振り掛ける」ではなく「施す」

でもそれだけでなんとなくわかってしまうのは、幼いころから日本語に親しんできた私たちの感性の成せる業でしょうか。

 

塩を施した紅鱒を積み上げ『一荷の荷』と為す・・ああ、一番メシが旨くなるくだりだ

このあと、容赦なく作業の描写は進みます。

浜での作業は腹を割いてはらわたをとりすてる。そのあと、作業小屋へ運ぶ。
作業小屋では腹と頭へたっぷり塩を詰め、魚体を縦横に積みかさねる。一積みごとに塩を撒く。一定の高さまで積みおわると、もう一度大量に塩をふりかけ、一荷の荷にするのである。

魚のサイズ・・不明。
不明なサイズの魚が『縦横』に積み上がる光景は、もっと不明。

「積み上げて一荷」の見栄えは、輪をかけて不明。

 

しかし、腹と頭にたっぷりと詰められた『塩』は、言い知れぬ存在感を示しています。

それはもう、あたり一面が白い。

それはそれは白いことでしょう(想像が貧弱!貧弱ゥ!)


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手返しする荷の重さが気になって仕方ないシーン

それだけではなお足りない。一荷ごとに敦賀で積んだ莚をかぶせ、通気をふせぎ、七、八日経って塩がやや溶けはじめたとき「手返し」と称して荷をさかさまにする。このときもう一度、塩を加える。さらに十日以上をへてふたたび「手返し」をし、しかるのちに船積みするのである。

イメージ不可の連発で、もはや状態が全く不明なのにもかかわらず、それを「手返し」するというカオス

 

しかし、「敦賀で積んだ筵」というのが妙にリアリティを感じさせる。

加工や梱包専用に作られた、形の整った筵が、小屋に積み上げられていて、そこからせっせと持ち出される様は、大量の塩と相まって何やら清潔ささえ感じられる。

 

塩が溶けはじめるのが7日から8日経ってからというところにも、なにやら悠久の時間の欠片を感じさせます。

きれいな空気、きれいな海水もまた、紅鱒の美味度を大いに上げてくれることでしょう。

 

蝦夷に集結した赤穂の塩の総量は? 

ところで、たっぷりと塩をつめた魚体を重ねるごとに塩を撒き、手返ししてさらに塩を加える、とのことですから、いったいこの浜へ、嘉兵衛はどれだけの塩を持ち込んだのでしょうか。

 

嘉兵衛が駆る辰悦丸は、この時代では規格外レベルの千五百石積みとのことです。

五百石でも結構な荷の量を積めるそうですから、塩も相当な量を運んできたことでしょう。

 

しかし第3巻では、松前藩が幕府から蝦夷地を召し上げられてしまうのではないかという政情不安から、嘉兵衛がせっかく持ち込んできた品物が全く売れないという事態に陥ります。

 

ただ、そんな中でも塩だけは売れるということでしたから、蝦夷地ではとにかく塩の需要は非常に大きいのです。

 

その非常なほどの需要を満たしつつ、この紅鱒加工にこれだけふんだんに使えるということは、いかにたくさんの塩を嘉兵衛が用意してきたかがうかがえるのです。

 

品質にこだわる嘉兵衛がチョイスするのは、一流どころの『赤穂の塩』

これが、この『菜の花の沖』を読むときの味を、グンと引き上げる

 

私にとってはこのシーンこそ『菜の花の沖』全編を通してのクライマックスです。

 

そんなにも『塩を食う』紅鱒?

ちなみに、紅鱒は本鱒に比べて脂肪が多くて美味、という一文だけならさしたる興味も惹かないのですが、嘉兵衛のモノローグ一発で突然様相が変わるのがエグイ。

 

「紅鱒が、これほど塩を食うとは」

 

まとまりがつかない塩引き作業のイメージも、どっさり用意された塩を両手で豪快にすくってまぶしていく、という単純な想像だけで満足できてしまう。

そんな読み方へ誘導してくれる秀逸なセリフです。

 

軽く解説されていますが、どうやら鮭とは比較にならないほどの塩を要するようです。
一体どれほどの脂肪なのだろうか?

 

この有難き塩

スーパーで買ってきた枝豆を軽く水洗いしてざるにあげ、水気を切ったあと塩もみしてしばらく放置すると、表面は乾いていたはずなのに、かなりの水分が出ることが確認できます。

 

その分だけ身が引き締まり、調理時に素材の旨さを引き出してくれる効果は、他の様々な食材においても共通する。

 

やはり『塩』の効果は大きい。

 

嘉兵衛が紅鱒を塩引きしたときにも、その効果はいかんなく発揮されたことでしょう。

 

水揚げした魚類ですから、当然水気も多く含んでいるはずですが、それは度外視されています。

「塩鮭を作るときの比ではない」と、同じ海産物である鮭と比較していますからね。

 

そしてその塩鮭については第2巻、松右衛門の旦那が登場した稿で、彼が発明したとされる新巻き鮭との比較で描写されている。


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蝦夷地から本州へ運ばれてくる塩鮭は、塩のかたまりを食っているようなものだが、松右衛門は蝦夷で食った塩鮭の美味が忘れられず、あれを本州でも味わえるように工夫したのが新巻き鮭だということだそうです。


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私のように食べ物ばかりに注目しながら読んでいる者にとっては

「ようするに2巻で説明のあった、ふつうの塩鮭との比較で紅鱒は美味いのか」

と、じつに深みのある伏線になっています。

 

結果、新巻鮭より美味しそうな紅鱒

ちなみに松右衛門が発明した新巻き鮭の秘密は甘塩(薄塩)をつかうことと、弱めの塩加工でも腐らないように、特別の船を差し立てて早々に運搬するところにあるようですが、嘉兵衛が取り組むのは鮭よりも早く腐ってしまいそうな「脂肪たっぷりの紅鱒」です。


つまり、嘉兵衛にとっては驚くほど塩を食ってしまう『脂肪』こそ、あしが早いという短所を持ちつつも、逆にそれこそが最大の長所を引き出してくれるカギとなることが明かされます。

まさに『菜の花の沖』の最高の見せ場を作ってくれているといって過言ではないでしょう(あくまでも私にとっては)。

 

塩は紅鱒から脂肪を吸い出し、改めて鱒の身をくるむ。

たっぷりと脂肪を含んだ塩は、まったりとした絶妙な塩味に変わって、長い時間をかけて魚肉に染み込み、人々が口にしたときの美味を奏でていく。


塩紅鱒(ベニマス) 特大切身5切 甘塩

 

しかもこの時代のことですから、塩というのは塩田で本格的に作られる、ミネラルをしっかりと含んだバランスの良い自然海塩です。

嘉兵衛は品質にこだわる商人だったらしく、塩の産地の中でも特に播州赤穂のものが最高と知ると、それを積極的に持ち込んで使ったようです。

 

各工程で追加投入される多量の塩は、紅鱒の身の奥に蓄えられた脂肪を次々と吸収し、ついにはこの絶妙の漬け材料によって、内臓からも体表からもまんべんなく旨味が浸透しきった最良の蛋白食材へと変貌を遂げる・・と。

 

 

つまりこの稿を読むときに注目すべきは『塩』と『脂肪』

この二つによって食物がひときわ旨く仕上がっていく様子を、効果的に描写してくれています。

塩を美味しく表現するって、なかなか難しくないですか?

 

とにかく紅鱒加工の様子が大変魅力的に描かれていて、私がこのシーンを何度も読み返してしまう要因になっています。