「お忙しいところ大変恐れ入りますが、助けて頂くことは可能でしょうか?」
自分や大切な人が襲われたりして身に危険が迫っている中、そんな悠長な言葉づかいで他人に助けを求める人は居ないでしょう。
助けを求められた側にも、それでは切迫感が伝わりません。
「悲鳴」か「罵倒」かを語彙だけで判断できない状況
本当に危機に瀕したときに助けを求めるメッセージは、相手が誰であろうと「敬語無視」「文法無視」「TPO無視」で、とことん無造作なほどこちらの状況が伝わりやすい。
いかに強く不協和音を出せるかが、心身の安全を保たせるカギになるはずです。
『#〇〇〇に殺される』がすべて政治批判とは言い切れないと思う理由
しばらく前に刺激の強いセンテンスがTwitterでトレンド入りしていました。
『#自民党に殺される』みたいなやつですね。
過激な言い方に嫌悪感をおぼえる人も多かったと思います。
しかし、それらのツイートが「腹を立てている人が文句言ってるだけ」のものだったとは思えない。
「それほど追い詰められている人の悲鳴」が一定数混ざっていたと思うので、一概に為政者への批判や悪口とは思えないふしもあります。
現時点ではいくばくかの余裕があって「腹を立てている人」のポジションにいられる人も、いつどうなるかわかりません。
わずかなきっかけで、たちまち「追い詰められた人」へ転落する可能性を否定できないからです。
そうなると、あっという間に「悪口」は「悲鳴」に変わる。
一方、政府への悪口ともとれる様々な物言いに「酷い文言に嫌悪感をおぼえる」と、諫める言葉を吐く人もいる。
品が良いのか、品よく見せたいのか分からないが、公平な正義派ともいうべき態度で、世上にあふれるやや過激な物言いに対し「物言う」人もいてポジショントークするわけですが、その人達自身も、実は ”そっち側” に落ちていくリーチがかかっているかもしれないわけで・・
空気を読む人ほど助けを求める悲鳴を上げられない
他人から見て「良い人」の性格は、大きく分けると二つに分かれる気がします。
- 『躾』によって身についた、自分自身で制御可能な【素養】
- 『同調圧力』によって押し付けられた、権力者にとって都合が良い【抑圧による態度】
他人に迷惑をかけてはいけないという思考や言動、または振る舞いが、”躾”によって身に付いている場合は、とっさの行動の際に自由な選択が可能。
仮に自分が追い詰められたときでも、そこで取るべき行動は自分の考えで決めることが自由なので、「助けて!!」という気持ちの伝え方にバリエーションを持たせることが可能です。
しかし、”同調圧力”の場合、圧力をかけた相手の都合に合わせることだけを目的に、自分の気持ちのアウトプット方法が限定される。
ゆえに、自分の気持ちを表す術が明確ではなく、おぼつかないものになります。
それこそ「悲鳴なのに丁寧に言う」といった、本質とずれたコミュニケーションを試み、よけいに傷ついてしまうことが起きたりします。
悲鳴を上げたい時に『同調』なんてクソくらえだ
とにかく、自分が追い込まれていて、それが深刻であるならば、それを主張しなければならない。
そのためにはまず、助けを求める相手から注目してもらわねばなりません。
『同調』して目立たぬように手控えていてはマズい。
場合によっては、周囲が眉をひそめるような物言いをしなければならないこともあるし、平常心をかき乱すような大声や大きな物音を立てなければならないこともあり得る。
「では、どこまでやられれば『追い詰められた』と判断してよいのか?」という問題はありますが、これには決まった法則はないでしょう。
職場という環境は、それ相応のTPOが求められる前提で出来上がっていますが、そんな中では、弱者の立場は、社会情勢や経済事情が厳しくなると益々難しいものになります。
しかし、「カナリアの歌」に象徴される”バロメーター”に甘んじているばかりでは仕方がない。
ある程度、強者に思い知らせるような行動は必要になってくると思います。
逆に強者は、これまでの継続で明日があると安易に決めつけるのは禁物だと思うので、互いに理解しつつ、組織の質を変えていく協働が必要だと考えています。
職場環境と政治状況がモロに隣り合うハメになった危機
政治の迷走によって、経済に大打撃が加えられている現在、職場環境作りには一層の困難さが加わってきます。
「自助」は『自衛』に読み替え、「共助」は『共謀』に差し替え、アテにならない「公助」はその実施主体に『攻撃』を加えないと未来が無いと思わざるを得ない。
私などはさほど残り時間が無いわけですが、これから先長期間にわたって責任を持つことになる子供たちのためには、まず私たちはしっかりと国政に参加する義務がある。
投票用紙に悲鳴の文言は書けませんが、投票用紙ならではの意志の示し方はあります。
過激なハッシュタグはこれからも出現するでしょうが、政治に無関心な層に届くものであり、選挙に関心を持たせる結果を生むならば、現状において最も国家のためになるものではないのだろうかという意味で、私は容認派です。