やらされてやっている仕事の何割かは「耐える」という個人の感覚に左右されると考えています。
一部、「自分で自分に課している仕事」も含みますが、当然ながらこちらのほうは耐性が高くなる傾向があると思います。
会社側から見て「生産性の高くない仕事」
労働者側から見て「我慢を強いられる仕事」
Aという作業がこれに該当する場合、会社の感じ方と労働者のそれはまったく違っている。
それが如実に顕れてしまうのは評価と給与でしょう。
経済成長している時代ならば、会社も個人も収入が上がっていく。
ゆえに、労使どちらもが抱えている不全感や不満も自動的に解消するところが多かったといえるでしょう。
しかし経済停滞もしくは下降する時代では「期待するほど利益効率が上がらない会社」と、「期待するほど収入が増えない労働者」の状態に置かれる。
すると、この不全感と不満は自然解消されず、その本当の姿が浮き彫りになる。
衝突する『互いの言い分』
会社は「この仕事の生産性は高くないので重要性が低い。だからこれをやらせる従業員には、それに見合う分しか支払わない」
しかし労働者にとっては「自分はこのきつい仕事に耐え、よく働いているからもっともらわないと割に合わない」という思いを持たざるを得ない。
労働者と経営者の感覚の乖離が生まれてしまうのですが、ずっと成長を続けてきた日本経済の土台に立って生きてきた両者は、この局面でのあり方を知らないという点で、かなり見当違いなことをしてしまう事が考えられます。
会社は「ブラック化」、労働者は「愚痴や反抗」あるいは「心身を病む」といった形を取ることが増えてしまう。
当然、人材の流動化が進む。
計算した結果「切り捨てる」のは・・
じゃあ、どうせなら・・
すぐに人が辞めてしまう業務は、当社から切り離してしまおう
そうすれば優良な従業員だけが残って、当社の質も良くなるに違いない
賃上げも、そのメンバーだけを対象にすれば・・なんてことも起きていそう。
賃上げ論争は良いけれど、「生産性の低い仕事」を外部へ丸投げして「2:6:2の下位の2を当社から消してしまおう」とか安易に考えないでほしい。
実はその「切り捨てた質の低い仕事」こそが大事な顧客接点だったりするケースは実に多いと思う。
結果として肝心の「顧客の声」が段階を踏んだ報告でしか受け取ることができず、栄養素が根こそぎ失われたカスみたいなものしか得られなくなるとしましょう。
良薬は口に苦しではないけれど、実は「不都合なこと」にこそヒントがあるにもかかわらず、そこからは手を引いてしまったため、価値を生み出せなくなった。
その「不都合なこと」をさせられている労働者にとっては、よりいっそう日の目を見る機会が失われる。
どう考えても互いに損している気がします。
するとどうなっていくか?
一つの憶測として、会社が最もほしい高価格帯の製品やサービス開発が、どんどん浮世離れした発想で役立たずなものになる恐れがある。
岸田政権みたいに・・
国民にこれほど「割に合わなほどの我慢」をさせなければ、少しはマシになるのに・・
反面教師にこそすれど、さすがに「ああいうふうになりたい」と考える経営者は存在しないと思う。「現実」と向き合う企業である以上は。