その特徴ある食風景が心に残る『坂の上の雲 第二巻』は私のお気に入りです。
わずか5ページほどですが、桝本卯平という人がフィラデルフィアの造船工場で働くシーンがあります。
そのうちたったの9行ですが、給料と食事のことが書かれている。
工場の日給は1ドル40セント
1週間休まずに働くと7ドル70セント
これは5.5日分の労働報酬です。
月~金曜、プラス土曜日の午前が仕事だったということでしょうね。
古き良き時代、ファミリー感の象徴『課内旅行』は半ドンの土曜午後に出発だった
私が勤めていた役所でも平成初期まで土曜日は半ドンでした。
つまり月〜金プラス土曜の午前中が仕事。休みは土曜の午後と日曜という時代だった。
だから年に一度の課内旅行は、毎回土曜午後の出発でスケジュールが組まれました。
車を出してくれる人たちが玄関前に自家用車を並べて、各自それに乗り込んで出発する。
日曜の夕方に解散し、翌日からまた1週間、会社の人たちと一日中顔を合わせるのが”課内旅行のある週”の現実。
今なら「13連勤」と呼ばれそうです。
土曜半ドンですら苦痛なのに、職場じゃないところで職場のキャラクターを演じ続けるなんて・・と、今ならそんな感覚かもしれません。
それがふつうだった時代を経験していると、今昔の感を禁じえない。
ちなみに「半ドン」で色々探していたらこんな作品を見つけました。
同じ半ドンでもこちらは学生生活のほう。
土曜日の調理室に忍び込んで料理を作っているところを同級生男子に見つかったことで、彼に料理を振る舞うことになる少女が主人公とのことで、ランチづくりがテーマらしい。ちょっと気になります。
閑話休題
話を元に戻しますが、今では考えられない「土曜半ドン」
『坂の上の雲』の工場勤務のくだりは、そんなノスタルジーを惹起してくれます。
それはいいのですが、問題は家賃。
なんと週に5ドルだそうです。
せっかく7ドル70セントの収入が得られたのに、家賃が5ドルもかかる。
手取りの約6割5分は絶対不可避の固定費が占めてしまう。
労働者たちは残りの3割5分で、食費や雑費などのすべてを賄わねばならない。
2日間休めば赤字なわけで、かなり過酷な生活だったことがうかがわれます。
「収入の6割5分が家賃に消える生活」を『朝倉哲也』というモノサシで想像してみる
末端労働者の経済生活で、手取りの6割5分が家賃だなんて・・
ここで、現代に生きる我々には思いつくことがあります。
自分で賃貸借契約をしたら高い物件に住まねばならなくなるというなら、「寮に入る」という選択は無いのか?
どうせ工場で働く作業員はみな近所に住んでいるのだろうし、それなら工場のすぐそばにまとめて住まわせれば、管理も楽になるし労働者は住居費が安上がりになってウィンウィンの関係になるのでは・・というのが現代の我々には有効な選択肢になりうる。
プライバシーがないとか、アイツが夜中うるさいとか、細かな諍いとかはあるかもしれないが、高い家賃を負担できるようになるまで済むところは安上がりで・・なんて。
でも、『坂の上の雲』の舞台である明治期において、そんな福利厚生的な概念はまだ無かったことでしょう。
しかも、彼の地です。
当時のアメリカでは家賃負担が最も大きかったらしい。
これはかなり厳しい生活が想像されます。
つぶしの効く大藪春彦の数値設定
どのくらい厳しかったかを大まかにつかめるように、ここでは彼に登場してもらいましょう。
そう、朝倉哲也くんです。
昭和41年を描いたと思われる『蘇える金狼』で、「ボーナスがあるのでやっと人間らしい生活ができる」と表現される朝倉の月の手取り収入は2万5千円。
これを現代に換算するとどの程度の生活レベルになるか?
私には、細かな時代考証をする力がない。
でも『蘇える金狼』の作中には「やっと人間らしい生活ができる」という漠然としたものではあるが手がかりはある。
この漠然とした手掛かりを元に、かつて年収160万程度で数年を過ごした私自身の経験から、東京23区内に住む朝倉の手取り2万5千円を現代に置き換えて、12万円と仮定しました。
この値を使って『坂の上の雲 第2巻』で桝本が働いたという、フィラデルフィアの造船工場での生活を考えてみましょう。
固定費負担で絶望的な労働者たち。・・しかし、
まず、12万円のうち6割5分といえば7万8千円。
私が仮定した朝倉くんの家賃は、会社からの距離によって通勤定期代とのトレードオフがあるとして『家賃プラス定期代で7万円』としました。
7万8千円では8千円分の足が出てしまいます。
ちなみに通勤費ですが、『坂の上の雲』に登場するフィラデルフィアの職工たちは工場近くに住んでいて、徒歩で通っていたものと考えています。
一方、朝倉くんの月の出費のうち、家賃以外の固定費的経費として、私は水道光熱費と通信費で1万円を計上しています。
つまり、家賃7万円とその他固定費1万円が差し引かれた残額4万円が、彼に許された食費と雑費の限度額でした。
フィラデルフィア工場では、家賃だけで8千円もオーバーしてしまう。
そうなると食費と雑費は3万2千円の枠しか持たなくなってしまいます。
「無理だな、こりゃ」
さすがに朝倉にこの設定を当てはめて想像を展開するのは無理があるかと思われました。
ですが、桝本の同僚の職工が放ったこの一言に注目です。
アメリカの労働者ほど世界で幸福な労働者はない。取れる金が多いし、食物がべらぼうにやすい
なに!? 食物がべらぼうに安いって??
それなら一考の価値がありそうではないか
メシ・・・とにかくメシなのさ朝倉くんは
どの程度の安さだったのか?
それについての記述こそ、私がこの『坂の上の雲 第2巻』が心に残る理由です。
《実にくだらないけど続く》