「あの・・、これのやり方って、どうすればいいんですか?」
「前のやり方見れば分かるでしょ。同じようにやってください」
「アレ、この〇〇って、何のことでしたっけ?」
「そんなこと人に聞かないでググってください」
こういうやり取りが、ごく普通に行われる職場があります。
以前は先輩(上司)が後輩(部下)に対して行う厳しい仕打ちがもっぱらでしたが、最近の”テクハラ”なんかだと、逆に後輩が先輩に向けて、えげつない攻撃をすることも増えたようです。
労働生産性とは「創意工夫(価値提供)したくなる職場」から生まれる
一応、最初にお断りしておきますが、私は上記のようなやり取りが行われている場面に遭遇すると、
「教わってないことを知らないのは当然だから、気にしなくていいよ」
と言われた側へ言葉を掛けたり、逆に、言った側に
「指摘するにも『言い方』には気を付けたほうが得だよ」
と、どちらにも助け舟を出せるよう、そういったことを言える立場に立ってしまう性質です。
こと人間が動く現場においては、ざらついた対人接触や、誰かが脅えてしまうような雰囲気こそ、よほど生産性が下がる。
(ゆえに本記事は、ツラく当たられた愚痴を言う主旨ではなく、逆に、ツラく当たる人を責める意図もありません。問題なのは”職場環境”なのですから)
『機械にはさせられない仕事』の生産性
効率や生産性の追求とは、必ずしも財務諸表の利益額やキャッシュフローを求めるだけではない
なぜならそこで働いているのは人間であって、人間には感情がある
気持ちよく働ける職場
協力し合える同僚
指導やモデリングがスムーズに行われる上下関係
こういったものをベースに人間的成長がなされ、職場へのロイヤリティを高めることが、個人にとっても会社にとっても良い関係を結びやすくなる。
そうやって高い能力の人材を定着させることで 、長期間にわたる継続的な企業成長の原動力とする。
そういう考え方があっても良いと思います。
「ウチはそうだよ」と言う方も多いと思いますが、非正規スタッフで同じことが言える方の数は、グッと少なくなるというのが私の実感です。
そして、ジョブ型を推進して非正規スタッフが増えていく中で、高いロイヤリティを持てる人数は維持できるのだろうか?
【付加価値額/労働投入量】⇦ 生産性の公式を、そのまま現場へ下ろせない事情
「単純労働は機械にさせれば良い」と語る経済識者がいる。
だが実際には、その単純労働の際の「人間同士の触れ合い」から生まれる付加価値もある。
現場に立つことの無い識者の頭の中には、”実感”、”経験”はないのが普通です。
どうしても現場レベルでの視野は狭く、時間尺も短い近視眼的な発想になるでしょう。
(上場企業が開示する財務諸表などを追いかけていると、よほどの達人でないかぎりそうなると思う)
その前提で「効率」とか「生産性」という言葉を重々しく語っても、それが理想の形で労働現場に落ちていくことは、まず期待できないと思っています。
それどころか、財務諸表などの業績数値や経済指標の理想論をベースにした「効率」「生産性」の追求は、しばしば従業員を追い詰めて搾取する利益の追求を招く。
本来はもっと広い意味で使われるべき”効率”や”生産性”というものを狭めてしまう要因に、経済識者が唱える「効率」「生産性」がある気がしてなりません。
だから『生産性の追求』は、労働現場でこう変換される
「あの・・、これのやり方って、どうすればいいんですか?」
「前のやり方見れば分かるでしょ。同じようにやってください」
「アレ、この〇〇って、何のことでしたっけ?」
「そんなこと人に聞かないでググってください」
この会話は、上流にいる人の理想的生産性イメージが下部に伝わらないことで、追い詰められて仲間を気遣う余裕を失った労働現場で具現化した結果の、ひとつの姿だと思います。
働きたくない職場で上がる労働生産性などあるのか?
上のようなやり取りがごく普通に発生するような、ギスギスした「働きたくない職場」が仕上がっていくほど、そこからはじき出される人も増えます。
集団の中には、物事の理解に時間がかかったり、要領よく時短することが苦手な人もいます。
そういった人が淘汰された現場では、表面上の効率は上がるかもしれない。
しかし、真に企業発展の礎となりそうな、高い価値を生む人間性を持つ人ほどそこからはじき出されるという真実もある。
無論、要領のよくないメンバーも成長してもらわないと、組織としても困るのですが、「追い詰められ方」が強すぎるとメンバー間で心ない言葉が飛び交うようになることがある。(要は程度の問題)
結果、人と交わりを持たずに只々機械のように働くのが性に合う人や、それに順応して似たスタイルを身に付けた人だけが残るが、そうなると人偏付きの『働く』が影を潜めてしまう気がします。
現場に誤解と焦燥を与える「労働生産性」の掛け声は、逆効果
結果として、”歪んだ生産性のイメージ”に引っ張られた職場の生産性は『働く』⇒『動く』レベルに寄っていく
まさに「単純労働は機械にさせれば良い」
ジョブ型に移行して正社員を非正規スタッフに変えていく現場の中には、将来的に雇用を排除していく過渡期要員の調達と割り切っているところもあると思います。
その間、大変革の局面の実働部隊が非正規スタッフとされながらも、処遇はやっぱり「派遣さん」だったりする・・
非正規スタッフは「スーパーサブ」じゃないのに
非正規スタッフが多い職場にいると痛感するのですが、じっくりと人材を育てていく環境が許されないような圧力が、上位者からかかってくる。
即戦力を獲得できればよいが、私のいる所でも単価を上げられないからと、「簡易作業」で募集をかけた最低賃金のスタッフを連れてくるので、即戦力レベルの人材は入ってこない。(そして教育する余裕は与えられない)
業務の性質上マニュアル作りに限界がある職場もあるので、本当なら絶対にマニュアルに頼りたい所でそれが不可とされてしまうなら、あとは仕事の質を落とすぐらいしか手が無い。
教育に掛ける手間ひま・努力が「コスト」と言われ、なぜか嫌われる
教育が行えない中であまり負担を強いると人材流出につながる(当然ですね)。
だから仕方なく簡易作業主体にすると、しわ寄せを受ける箇所でも同じリスクが発生する。
だからといって能力に応じた成果しか得られないと「プロジェクト自体が価値を生んでいない」と、会社側から切り捨てられる。
そうなったらスタッフ全員が「ノーワーク・ノーペイ」の名のもとに捨てられてしまう。(そういう会話を目のあたりにしたこともあるし、私自身、昔のことですが、実際に切られた経験を持つ身であります)
本来、勤め人として専念すべき”おしごと”が、非常にやりづらくなってしまうのです。
現場メンバーの課題じゃないものを負わされたからこそ
「あの・・、これのやり方って、どうすればいいんですか?」
「前のやり方見れば分かるでしょ。同じようにやってください」
「アレ、この〇〇って、何のことでしたっけ?」
「そんなこと人に聞かないでググってください」
今私がいる周辺でも、いつこんなやり取りが始まらないともかぎらない。
しかしこれは、単なる業務スキル習得の巧拙のように見えて、そもそも「働く環境」に問題があることがあります。
ゆえに、この事象を単なる「現場内のいがみあい」と片づけてしまっては、完全に本質から外れ、解決への道はいつまで経っても開かれないと思う。
人間は育たない。だから機械で肩代わりさせる仕事場にせよ(?)
そうこうしているうちに、経済識者がいう「単純労働は機械にさせれば良い」として不毛な労働現場となり、結局は全員が職を追われる羽目になりかねない。
(私が安易なマニュアル至上主義になり切れない理由のひとつに、このことがあります)
「不毛な職場」に到達するまでの間に人心は荒廃し、対応品質は下がり、ひいては経営の質が下がる。
国内でドングリの背比べをしている分には目立たないかもしれないけれど、国家経済のレベルでは、低品質企業が林立する日本は、他国に置いて行かれる・・(というか、ジャパンアズナンバーワンを謳歌したあの時代は、すでに遠い過去のものになっている)
働き方改革は、短期的な生産性で考えると痛い目をみる
もう一度書きますが
「あの・・、これのやり方って、どうすればいいんですか?」
「前のやり方見れば分かるでしょ。同じようにやってください」
「アレ、この〇〇って、何のことでしたっけ?」
「そんなこと人に聞かないでググってください」
こういうギスギス対応が当たり前に行われる職場は、生産性という言葉の意味を体感していない人間が頭の中だけで描いている理想論のなれの果てであり、想像力不足の識者が言うことを真に受けた経営者が被る損害です。
そして、そこで働く労働者たちは、心身を病んだり、豊かな人間性を失いかねませんので、労使ともに得をしません。
まとめ(仮)
では、働いて楽しくなるビジネス現場とは、どんな会話が行われている場所なのか?
実は、上に書いてきた暗めの内容は、あるブロ友さんの記事を読んでいて考えたことです。
その方の記事自体は、ほのぼのした明るい日常を綴っているのですが、実のところ深い内容だなと感じていて、それを書きたいと思いました。
しかし、ブロ友さんの記事紹介を、この政治経済批判の話といっしょくたに書きたくないため、その話は次回にゆずりたいと思います。