歴史もののドラマや小説では、誰が主人公なのかによって、他では主役級の登場人物が脇役になることはよくあります。
司馬作品のリアリティは、価値観を変えてしまう
私は司馬遼太郎さんの「世に住む日日」を読んだ頃は、明治維新の頃の人物の中で一番好きなのはダントツに高杉晋作でした。
会社のパソコンのスクリーンセーバーを、決まった文言が流れるタイプのものにしていたのですが、そこに設定していたのは
萩にゃ行きたし 小倉も未練 ここが思案の下関
守旧派に操られていた長州藩にクーデターを起こした際、陣中で唄った都々逸(どどいつ)です。
「たった一人の革命」に突入するシーンを、司馬さんは見事なまでの臨場感で描きます。
雪が舞うなか、見送る公卿たちに馬の背から振り返り、短い決めゼリフと共に出陣していく光景が、身震いするほど恰好が良い。
最高の演出に乗せられて大いに気持ちが昂ぶり、のめり込むように熱くなったまま読み進む私。
血沸き肉躍る熱い展開が続くなかで、三味線を奏でつつ、こんな飄々とした都都逸を唄う一面を見せられるので、そのギャップにより一層晋作の魅力が引き立ちます。
この作品での晋作は、ナショナリズムにあふれた『長州至上主義』で、世間に名の聞こえた志士でありながら、一切他藩とは交わらないという姿勢を貫きます。
やがてクーデターに成功しますが、晋作は最大の功労者ですから、戦勝の美酒に酔いしれても良いところですが、ここでも孤高を貫きます。
本来なら、その家柄の良さや藩主父子からの信頼度から、藩の首相クラスになっていてもおかしくないところですが、あっさりとそれを放棄してしまう。
まさに「孤高の中の孤高」とはこういうことか…
27歳で生涯を終わったという実働時間の短さも相まって、私の中で高杉晋作は、多士済々の維新の人物第一等にランキングされたのです。
高杉時代は短かった
しかしながら、そのすぐ後に読んだ「龍馬がゆく」で、早くもそれが揺らぐことになります。
幕府の第二次長州征伐では、晋作は小倉口を担当して幕府軍を破りました。
「世に住む日々」を読んだ時のイメージでは、”独力で九州へ乗り込む感じ”がして、後のペプシコーラのCMの小栗旬さんを思わせる船上のヒーローといった印象です。
しかし「龍馬がゆく」では小倉口へ軍艦を差し向けて戦った龍馬の活躍が鮮やかに活写されます。
それに、他藩の人間とは一切関わらなかったはずの晋作が龍馬を訪問し、頭を下げて「もう一度頼みます」と言っている。
孤高を貫いたところが大きな魅力のひとつだったのですが、こういう一面を見せられるとイメージが変わってしまいます。
小説ですから、歴史のどこを切り取って読者に見せるかも含めて作者の腕前ですが、これはタイミング的にショックでした。
軽薄なようですが、私の中での「明治維新の人物ランキング」の晋作の順位は少し下がり、その後も色々な作品を読むにつれて入れ替わりは進みました。
パソコンのスクリーンセーバーはその後「諸事、士道ニ背キ間敷事」と、幕府サイドだった新撰組隊規に変わり、今では維新熱も冷め、単なる歴史好きになっています。
ちなみに、スクリーンセーバーを「諸事、士道ニ背キ間敷事」にしていた当時、私の席は窓際の入り組んだ位置にあり、誰にも見られることはないはずでした。
しかし、私が不在の日に資料を探しに来た、以下の過去記事に登場する所長がそれを見つけ、よほど可笑しく思っていたのか、後日の忘年会で私を「武士道、武士道」と表現したのには面喰らいました。
こういうのはかなり照れます。