【感情会計】善意と悪意のバランスシート

善と悪の差し引き感情=幸福度

『ながらスマホ』と「歩きスマホ」は違う

過去2回にわたって、「ながらスマホ」に関する記事を書いてきました。


これはアンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』という書籍を、岡田斗司夫さんが解説した動画を元にしたものです。


スマホ脳(新潮新書)


そしてこれは前の記事でも書きましたが、動画のサムネを見る限りではスマホに否定的な印象を受けますが、岡田さんはスマホ否定は一切していません


「著者の独断に過ぎるかも」という点には、はっきりと疑問符を付けています。

www.youtube.com

 

同じものとは考えられない「ながらスマホ」と「歩きスマホ」


ただし、この動画で語られているのは、あくまでも「ながらスマホ」です。


私がこの動画を見ていて受けた印象は、「ながらスマホ」とは、何の情報をチェックしているせよ【その場で実行する作業のひとつ】であるという点です。


特にこの動画の中では ”作業効率の低下” について、多くが語られています。

 

これはおそらく、仕事や勉強の最中にスマホをチェックすることを主な問題にしているからだと思われます。

 

※なお、私はスマホを所有していますが殆ど使わないので、実は「ながらスマホ」とは全く縁のないタイプです。

 

「ながらスマホ」は ”居ながらスマホ”

大雑把に設定します。

 

あなたがする行為を【作業A】と【作業B】に分けます。

本来しなければならないことが【作業A】、スマホを見るのが【作業B】。


当然【作業A】と【作業B】は別々のことです。

 

しかし、どちらも机でしている作業ならば、AがBに切り替わるだけですので、その場から動いてはいない。

 

他人からすれば、ずっとあなたを監視しているならばともかく、そうでなければAとBのどちらをしているかなど気にもならないでしょう。

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このように、普段しがちな「ながらスマホ」の多くは【作業A】と【作業B】の間を行ったり来たりするという状態で、ほぼ一か所に留まって何事かをしている時ではないでしょうか。

 

会社があなたに求めている ”生産性” を別にすれば、たとえあなたが【作業A】【作業B】のどちらをしていても、傍から見たら「一つの行為をしている」という括りになることに変わりはありません。

 

やっているのは「操作」のみ

上に書いたのはあくまでも「ながらスマホ」です。

 

自分ではマルチに動いたつもりですが、他者との交わりにおいては、あなたは”ひとつの行為を行っているように見える” という特徴があります。

 

それとは違い、”マルチタスクができる自分” という自己イメージを作り上げた結果、ついやってしまうのが「歩きスマホ」ではないでしょうか?

 

私は、仕事中に何度もスマホを見てしまう「ながらスマホ」と『歩きスマホ』は、全く性質が違うと思っています。

 

「ながらスマホ」は、仕事の最中に違うデバイスを操作してしまいますが、『操作』というひとつの行為しかしていません

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物理的には他人に影響を与えず、危害を加えないのが普通です。

(ここではあえて ”効率” や ”生産性” は無視して考えています)

 

「マルチタスク」は周りの人たちが”賞賛”、少なくとも”納得”するレベルのはず

『歩きスマホ』は、操作中に ”移動” という全く色合いの違う行動を取っている。

 

本当のマルチタスクとはまさにこのことです

「作業」と「移動」を、同時にやってのけている

 

これを、一切他人に迷惑をかけずに、最初から最後まで完結させられる人なら、文句なく『天才』といえるでしょう。

 

でも、そんなことができる人はまずいない。

 

「ゆっくり歩いているから大丈夫」の大半は「だからといって流れに沿ってはいない」

「常に前方を視界に入れている」は実のところ「その分左右には意識が向かない」

 

‥など、どんなエクスキューズもちょっと無理が生じ、「賞賛」どころか「納得」を得ることも難しい。

 

ひとところに居ながらの2行動である「ながらスマホ」なら ”納得” は手中にできるかもしれませんが、『歩きスマホ』ではそうはいかないとみるべきでしょう。

 

「歩きながら本を読むヤツと何が違うんだ!」に対して言えること

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歩きながら本を読んだ経験は多くの人にあると思いますが、「本を読む」という行為は 基本的に受動的です。

 

そこに書かれてある内容を受け取って、頭の中だけで処理をしていく作業です。


能動的な行為が、そこには存在していない。


たとえば、歩きながら本を読んでいるときに、読みかたのわからない漢字が出てきた。

でもこの漢字は、たしか2ページ前に初出した時にはふりがなが振ってあった。

 

ということで、その箇所に戻ろうとページをパラパラとめくるとき、足は自然に止まると思います。


・ページを繰って(操作して)探索する

・足を動かして前に進む

 

この2つの能動的行為を同時に処理できないことを、無意識に悟っているかのように。

 

私たちの脳は、大昔からそのようにプログラミングされているのではないかと思う。

 

報酬系ホルモンによる逸脱と「酔って気が大きくなる」は似ている?

「自分はマルチタスクができている」という思い込み(自惚れや錯覚)がない場合、人は普通上記のような形で「その時にする能動的行動」を切り替えているはずです。

 

報酬系ホルモンに騙されていなければ、大概の人はそうしていると思う。

 

ふだんは礼儀正しく真面目な人が、酔っぱらって気が大きくなると態度が豹変することがあります。

 

普段なら当たり前に自制できるところが麻痺してしまう。

 

そして「このくらいやってもいいのだ」と大いなる錯覚を起こしてしまう。

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歩きスマホに禁忌が無くなるのは、酔っぱらった脳の状態とは違うかもしれませんが、心理的には同じことが起きている気がします。

 

でもやはり、ギャンブル中毒の感覚のほうが近いかもしれません。

「あともう一個リプを見るだけだから大丈夫」

「あと5千円だけつぎ込んだらやめる」

は、いわば相似形ではないかという気がしてならない。

 

「操作しながら移動」は自他ともに非常に危険な行為になり得ると思うのですが、それが分かっていても止められないというのが特徴のようです。

 

「気を付けてるから大丈夫」 ⇦ 悪いが信じられない

他愛のない作業ならば、少しくらい気が散っても、さして大きな問題にはならないかもしれない。

 

でも、重大な事柄の時にはそうはいかないので、そこはTPOに合わせるでしょう。

 

たとえば、命に関わる手術の最中に「ながらスマホ」をする外科医はいない。

 

事の軽重によって、絶対に気を散らしてはならない場所では、わきまえた行動をとる。

我々にはそういう切り替え能力がある。

 

しかし、それ相応の事柄がないかぎり、切り替え能力は働かないということでもある。

 

しばらく前に、「踏切の内側」で電車の通過を待ってしまい、跳ねられて死亡した若い女性がいました。歩きスマホの最中の出来事です。

 

そこは私もよく知っている場所なのですが、とにかく人が多い。

時間帯や位置的条件から考えると、周りに誰も居なかったとは考えづらい。

 

しかし、彼女が「踏切の内側に立っている」ことに気づき、注意した人はいなかったらしい。

 

それ相応の事柄があっても、それに気づかなければ、やはり行動の切り替え能力は働かないようです。

 

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歩きスマホや自転車走行中のスマホは、悪くすればそれこそ命に関わるほどの事態を引き起こしかねない危険な行為です。

 

けれど、それより危険なのは『危険を感じさせなくさせる錯覚』とか『危険を起こしかねないことはわかっているけどやめられない』という中毒性であり、スマホを使いこなすには、錯覚や中毒性との付き合い方が身についていないといけないのかもしれません。

 

いずれにせよ、2つの能動的行動を同時に行えるほどのマルチタスクは、ほとんどの人が実現はできないので、「ながらスマホ」はともかく、私は『歩きスマホ』には否定的です。