「だから平時の政治家はこういう時に役に立たないんだ」と、現総理がよく揶揄されています。
たしかに、多くの方が言われるように『平時』と『有事(戦時)』の際には、求められる能力がまったく違うのではないかと思われます。
褒めたりクサしたりできるほど、私たちは『平時』と『戦時』を知っていない
我々が普段している雑談の中で、なにかと褒められがちなのが
「有事(戦時)の勇者」
一方、なにかと貶められがちなのが
「平時の能吏」という傾向はあるでしょう。
そうは言っても、実際に有事の中で勇ましく活躍した経験を持つ人はそう多くない気がする。
ということは、それを目にした人の数も多くないのでは?
「戦時」ならなおさらです。
雑談の際に語られる「有事/戦時の勇者」の多くは、物語や歴史の知識から想起されたイメージ先行、といった感じでしょうか。
もしくは、昔忙しかった頃の自分の記憶になぞらえて、「あの時は、我こそ有事の勇者だった」として、それを基準に勇者認定したまま雑談を楽しむ人もいるでしょう。
ゆえに、どんなときを以て「有事」だと思っているのかをお互いにわかっているかどうかは実に怪しい。
戦場経験を持つビジネスパーソンは、平時と戦時をどう語っているか?
前にも何度か紹介したことのある柘植久慶さん。
柘植さんが、この本の中で書いてました。
「平時タイプの人と戦時タイプの人」という項タイトルです。
柘植さんは、”平時向き”/”戦時向き”の人が、程良いパーセンテージでミックスしている組織が良いと言います。
例として豊臣秀吉の政権が引き合いに出されています。
天下取りが進むにつれ、平時向き人材(文治派)の台頭が著しく、その切り替わりについていけない戦時向き人材(武断派)のショックや混乱が尾を引きました。
そして、そこに付け込んだ家康に天下を奪われる羽目になったと分析しています。
「戦時⇒平時」には強くても「平時⇒戦時」だと人材に苦しみ、組織は弱くなる
歴史的に見て「戦時」⇒「平時」の段階は、為政者が意図的に狙ってシフトチェンジするはずで、比較的コントロールが利き、それを指向した為政者本人が存在するかぎり、なんとか収拾がついている。
戦国の世が終わろうとする豊臣政権の終盤と、本当に戦国の世が終わった徳川政権のなかでも、家康存命時がその例でしょう。
また、この時には戦時向きの人材と平時向きの人材のバランスがある程度保たれていることも大きいと思われます。
しかし、長く続いた「平時」から「戦時」に切り替わるケースとなると話が変わってくる。
長年続いた平時体制に適応し、戦時向き人材の数が圧倒的に少なくなっている傾向があり、混乱の渦に巻き込まれてしまう人が大半で、組織的なコントロールが不可能な場合が多い。
石田三成を「官僚」にしたのが運の尽きだった?
豊臣政権末期では、朝鮮の役が終わったばかりの頃でもあり、国内の騒乱は治まっていたとはいえ、まだまだ戦時向きの将であふれていた。
ゆえに、政権を担当する人材のバランスとしては、主要な文官の数はさほど多くなかったでしょうし、それ以前に彼らが取り仕切る体制が完全に構築されていなかった。
にもかかわらず、文官の持つ権力だけが突出していたため、かなりいびつだったと思うけれど、織田家にもそういった傾向はあったようで、過渡期のひとつの姿なのかもしれません。
そんな状況で、文官のトップである石田三成に諸将が牙をむく形になれば、それを止める力を持つ絶対者がいない。
『豊臣政権』という組織は、途中から明らかに「戦時体制」→「平時体制」を目指して組まれたと思われますが、それが家康によって「平時」⇒「戦時」に引き戻されたとき、その姿を保っていることが難しくなったという言い方もできそうです。
「”平時の人”気質のメンバー構成」におとずれる崩壊のとき
現代のビジネス現場に話を転じます。
ベンチャーはもとより、大企業ですら ”オペレーション主導” なんて平和なことを言っていられないくらいの業績悪化もあり得る。
となれば、血で血を洗う激しい「戦時」となり、強力な戦時編成が求められることも当たり前になるでしょう。
問題なのは、「平時」に適応した組織員たちが、同じメンバー構成のまま「戦時」に対応できるか?ということです。
家康は秀吉が晩年に築き上げた「平時編成」の弱みをついた。
局面を「戦時」にチェンジするだけで、政権は崩壊する。
再び戦国時代の話ですが、秀吉死後の家康は、際どい行為を繰り返します。
大名同士の婚姻、利家亡き後の前田家への言いがかりなどがそうです。
いずれもキナ臭い状態を引き起こし、「戦時」へのシフトチェンジを謀る行為ですが、”戦闘そのもの” はしないまま、自身を圧倒的有利に導いた。
「平時要員」に重きを置き、バランスを崩した豊臣政権には、ステージを変えることが致命打になると知っていたかのようです。
最後に上杉家へ謀反の言いがかりをつけ、そこでとうとう戦いが勃発しましたが、そのころには石田三成は失脚するなど、家康の狙いどおり、豊臣の平時体制はボロボロになっています。
平時の一大特徴!
「良い部下とは、上司である自分にとって扱い易い人間のことだ」
そしてまた現代に話を戻します。
権威におもねる人間たちは、言うことはきく。言われたことはする。だから扱いはラク。
しかしその分、指揮者の能力に対する依存度が高くなることは否めません。
「偏る」といってよい。
『扱いやすい従順な部下』ばかりがそろったら、上司は部下との付き合いはラクかもしれないけれど、上司自身の能力がよほど高くないと、その体制は維持できません。
司馬遼太郎さんの『播磨灘物語』の中に、主人公の黒田官兵衛による秀逸なモノローグがあります。
織田軍で毛利攻めを担当した頃の羽柴秀吉に関してです。
上官である秀吉に従いつつも、実に冷静な態度で皮肉っぽく、秀吉陣営をこのように評します。
秀吉は、秀吉だけが優れている
これはという突出した部下がいない。
だから、思うようにことが進まず、きりきり舞いする。
秀吉の持ち前の明るさや、天才的な人たらしの才があるから崩壊まではしない。
しかし、この際立って高い能力が無かったら、『大将だけが優れている組織』なんてものは、とうてい競争の中で伍していくことはできない、といった意味のようです。
失敗の言い訳に「部下の不出来」を持ち出すときから「いい人リーダー」の称号は怪しくなる
業績降下や有力なライバルの出現によって、外的環境が『戦時』に変わってしまうことは、変えようがありません。
平時ならさほど問題にならなかった失敗が、戦時においては看過できない大問題に格上げされてしまうことがある。
豊臣政権における秀吉のような絶対的権力の持ち主ならばともかく、チームリーダー程度の立場では、自分たちの組織に大きな失敗があれば、上位者の信を問わなければならない。
(要は言い訳が必要)
失敗を部下のせいにすれば、自身の不名誉は避けられるかもしれません。
しかしそれが度重なれば、さすがに言い訳も苦しくなってきます。
すると次は、チーム内のルールをがんじがらめにして、これまで以上に束縛し、しかも責任の所在が誰の目にも明らかになるような方法をとる。
(要は晒す)
その頃から、当初は部下たちから「好い人」と評されていた鷹揚な上司のイメージに影がさし始め、部下たちとの関係に一部、亀裂が入り始める。
心の中の「戦時」に、『平時の能吏的リーダー』は対応できない
チームメンバーに対する束縛と、チームメンバーからの好感度とのトレードオフが開始され、やがてじり貧状態に……。
そうなるとリーダーにとっては、仕事の成果よりも保身が勝ってくる。
しかし本人はその焦りを認めず、「チーム力の維持」とか別の言葉に変換し、保身を優先した自分の考え方を正当化する。
でもそのリーダーは、少なくとも集団の中で人の上に立つ程度の能力はあるので、正当化している自分の後ろめたさには気づいている。
それを見ないように目をそむけているので、段々、あるいは急速に本質を外れた組織運営になってくる……。
事業組織とは成果を上げるために作られたはずなのに、それが単なる「養人組織」になり、腐り始める時だと言えるかもしれません。
イエスマンが「偉い人」に格上げされるとき
このあたりから、本当に質の悪いイエスマンが台頭し、やる気や実力のある部下は去って行く。
外的条件はますますシビアになり、業績が伸びないことはおろか、現状維持すら悪しきものとなってくる。
そんな中で、表層的な失敗だけでなく、見合う結果が出せないことも「失敗」とみなされるところまで来るとします。
そうなると、部下のミスに対する罰則、怠業への締め付けがいっそう強化され、相互監視や密告が日常化してくる。
早くからイエスマンの地位を勝ち取った目ざとい連中は、うまい具合にその相互監視体制の外にいたりします。
それどころか、チームメンバーの中ではむしろ密告する者からの報告を受ける存在に格上げ(!)されたりして、ますます権勢を手中にする。
権力者の乱立による対抗戦に巻き込まれないように
イエスマンでなくても、一定以上のポジションまで上がってしばらくすると、「オヤ?」と思わされるメンバーの行動に出くわすことがあります。
特に上位者風に接しているわけでもないのに、こちらを「密告の相手」あるいは「おべっかのターゲット」として見てくるメンバーが出現する。
ある日突然、まさに忽然と現れる。
平たく言えば、やたらと下手に出てきたり、聞かれもしないのに、他のメンバーのよからぬ行為を密告してきたりする。
慣れない上位者だと、自分にそんな報告をする部下の態度を以て「従順なメンバー」と解釈したり、あるいは翻って「私って偉くなったんだ!」などと自惚れてしまうことがあるかもしれないが、その前にいったん考えてみる必要があります。
その意図するところ、それらメンバーが求める見返りは何か?
なぜ自分のような新参の管理職に、さっそく媚を売るのか?
慎重に付き合わないと、いつの間にかこちらが監視対象にされ、上位者に密告されている場合があるので、人の良い平和主義者は要注意です。
私も「戦時」「平時」区別はつかないけれど……
「平時の能吏」が戦時に慌てふためく現場は、実にくだらない価値観に支配されがちな気がします。
想像以上にベタな、絵にかいたようなステレオタイプが、ウソのように通用することがあるからこそ、プロパガンダが幅を利かすのかもしれません。。
私は転職回数が何度もあり、つぶれそうな零細ベンチャーの立て直しに参画したり、キャッシュフローの良いぬるま湯企業で自己満足な上司の下で煮え湯を飲んだこともあります。
自分が「戦時向き」か「平時向き」かはわかりませんが、治に居ると乱を願い、乱に居ると治を目指すアマノジャクではありそうです。
そんな私に、歴史視点がふんだんに盛り込まれた柘植さんのこの本は面白いです。