北斗の拳の象徴的な食事シーンの第3弾は、『ケンシロウがモノを食べるシーン』
私が知るかぎり全245話の中で、たったの2回しかないというレアなカットの紹介です。
「メシを喰うケンシロウ」は作品世界にそぐわない
毎回書いていますが、北斗の拳は愛憎や友誼・信念や使命といった熱い想いや、暴力が支配する世の中における正義といった形而上の世界観を描く物語ゆえ、「食事」を表現する重要性は乏しく、さほど重視した描かれ方はしていません。
ゆえに、ケンシロウが美味しそうに舌鼓をうつ描写などは不要なものですし、彼が飲食に及んだと思われるシーンでは、主にリンやバットがその役目を担うことになる。
たとえば第3巻のこのシーンですが、バットのお母さんがタキを連れ帰ってくれたケンシロウたちに、それぞれ1杯の貴重な水を振舞ってくれる。
リンとバットがゴクゴクと飲み干し、そしてバットの弟タキが母に促されてコップを傾けるまでに少し時間がかかるので、下のコマに移るまでの間にケンシロウは水を飲んでいると思われるのですが、そこは巧妙にぼやかされています。
ケンシロウが器を傾けて何かを飲むカットは『花の慶次』に置き換えてみればわかるとおり、それはそれで充分格好良いはずなのですが、彼は劇中、とにかく飲食しない男です。
このコマも最初に見たときは、ケンシロウが口元にコップをあてているのかと思いましたが、この四角い物体はお母さんが持っているお盆です。絶妙な座標と傾きですね。
断ることのできない「まあ一杯やんなさいよ」
しかし、さすがに第1話のこのシーンではそうはいかない。
まさかここでリンとバットがケンの代わりに飲み食いするわけにはいきません。
ある意味、無想転生がカイオウに通用しなかったシーン以上のピンチだったかもしれない。
ウェザーニュースファン用に言い換えれば、江川清音さんの圧に負けて「ぐっぴ」に完堕ちする寸前の気象予報士・山口さんレベルにまで追い込まれました。
「シリアスヒーローは飲み食いなんかしない! 俺はそんな男じゃないんだぁ~!」
きっと、シュウを上回るほど強い心の叫びがあったことと思いますが、けっきょく目の前でお盆を持つリンの圧に負けたケンシロウは、山口さんが「ぐっぴ」をやってしまったときのごとく、水と食料に手を付けてしまう。
おそらくは「柿が2つ、バナナが1本」という謎のラインナップ。
バナナらしきものは、右から左にかけて上下に開き、内容物が前方にはみ出しているようにも見えるので、ひょっとしたらサンドイッチ的な食べ物かもしれない。
いずれにせよ、ヘタを取ったり皮をむいたり、あるいは内容物が落ちないように大きく広げた口を食物の周りでEXILEのチューチュートレインみたいに空を漂わせたりと、およそケンシロウが人に見せたくない姿をさらした点も、山口さんの「ぐっぴ」と酷似していたことでしょう。
しかし、とにもかくにもこうなります。
食べ終えた食物が視界からカットされているので、柿のヘタは見えません。
もしもバナナの皮が残っていれば、具が落ちそうなサンドイッチを片手に ”口だけチューチュートレイン” をやってしまった疑惑は晴れるのですが、それもできない。
まあ、とにかく生き返ったようです。
なぜかもう一度描かれる「ケンシロウの食事シーン」
おそらく、第1巻で晒してしまった醜態を恥じていたケンシロウは、その後、どうしても食事を表現しなければならないシーンでは確実なデフォルメを心掛けているらしく、おそらく『北斗の拳』における彼の最後の食事はこのシーンになります。
第6巻で、トキを探して一人旅するケンシロウが描かれています。
彼はひとり、他人のために献身する心優しき兄・トキの思い出にふけっています。
荒野の中、埃っぽい風が吹きすさぶ様子を表す『ブオオオ』の中、なぜか不自然に描写される『カチャ』とは?
もしも私が北斗の拳の編集者だったなら、この回ではこのシーンを最終コマとして、次回につなげる煽りの一文は『荒れ果てる大地の中で無言を貫く孤高の戦士。謎の音【カチャ!】の正体とは!!??』と結ぶに違いない。
じつはこの時、ケンシロウはメシを喰っているのです。
気づかれないとでも思ったか?
さりげなくトキの名を出して読者の気を逸らせたと、ケンシロウは思っていた。
しかし・・
見切ったぁ~!!
謎の罐詰。
この形状だと何だろう?
意外に甘党だったとか?
そういえば第1話では「柿とバナナ(?)」だったし・・
それ以外にこの缶の形状から考えられるのは・・
ゲーム実況でおなじみの『60 Seconds!』に登場するトマトスープ的な・・?
缶のフタはどうした、ケンシロウ?
この時のケンシロウはすでにレイと出会い、南斗水鳥拳を知っている。
缶のフタは「北斗神拳奥義・水影心」によって水鳥拳を用い、縁取りに沿って切り取っているはずなので、この画角だときれいに見える。
これがシンの南斗聖拳ではこうはゆくまい。おそらく缶の周縁に沿って5本の指を何度か突き入れて、内容物をつかみ上げる形で食したに違いない。
南斗の拳を使わなかったとすれば、彼が缶詰を食べるのはポパイに準じるしかないが、そうすると缶がこのような原型を保ってはいられません。
「缶切りなど使わぬ。拳士として、主人公として・・」
(´・ω`・)エッ? 「缶切りを使った」??
それは無いでしょう。
彼のような立場に立ったものが、そんなチマチマした動作を行うわけがありません。
『蘇る金狼』の朝倉君だって、ウォッカの瓶は手刀で首を叩き折っています。
ケンシロウなら罐詰ぐらいは握りつぶす。
そうでなければ南斗六聖拳のどれかを使います。
おそらく9巻以降ならば地面をたどった遠隔切断で、10巻以降ならば足を使って罐詰を開けることが可能になります。
そうです。
『罐切り』なんて、ケンシロウは使わないのです。
ちなみに・・
井上靖の『北の海』で四校柔道部の鳶永太郎が口にした名言「罐切りという奴は、俺たちにとっては必需品だ。片時も肌身はなさないで持っている。下宿の飯だけでは栄養はつかん。専ら罐詰で育っているところがある」は、私が文芸作品に接する際の座右の銘ですが、北斗の拳はその枠に収まらない大作の扱いとなっています。
しかし『北の海』
軽トラの荷台で罐切りを使って牛罐を開け、内容物を手で割って4人で分けるシーンは格別でした。
フトコロから取り出した手紙の便箋を皿代わりにするところなど、なんてリアルなんだろうと、大正時代の市井の学生の姿がありありと表現されていて、無数に読み返している傑作です。
中学1年でこの作品に出会ってから40年程度の歳月が経つわけですが、未だ手元に置いているほどです。
昔は1冊の文庫本だったけど、現在は上下巻に分かれて販売されているところに今昔の感を禁じ得ません。