暴力&エロス描写が苦手。
どう考えても菊池作品などに手を付けないほうが、私にとっては安全な読書ライフが送れるはず。
「魔界都市新宿」と「魔宮バビロン」だけと接しているのが無難です。
しかし、どうにも気になる「糸で戦う主人公」
糸が武器と聞くと、新必殺仕事人の「三味線屋の勇次」ぐらいしか思い当たらない私…。
十六夜京也が使う木刀・阿修羅から、どんな脳内変換を試みても、あの魔界都市で戦うためのアイテムにはなり得ない気がする。
初対面から10年ほど経ち、ようやく「魔界都市ブルース」に手を出した私ですが、最初に読んだのはシリーズ6作目の「童夢の章」。
魔界都市ブルース〈6〉童夢の章―マン・サーチャー・シリーズ (ノン・ノベル)]
理由は、1篇目の『白髪頭の戦士』には、どうやらエロスシーンがなさそうだということです。
(書店で手に取ってパラパラとページを送り、まるで遠くからジャブを打つように見渡して「どうやら安全だ」と確認できたのがこの話だった)
残念ながら、武具への期待に重点を置き過ぎた私にとって、この物語はどうも今ひとつの印象だった。
フレキシブルながらも用途は割と固定されがちな「糸」ですが、この物語で主人公が扱う「妖糸」は、その形状のみならず使い方までがフレキシブル。
超能力を使っているのとさほど変わらない。
ただ、この“魔界都市もの”の各作品に登場するドクターメフィストが、不可解な行為を説明抜きで実施するのと比べ、秋せつらの場合は超能力的なことを行った場合、そこには妖糸が使われた描写が要るという縛りがあり、何でもありという安易さの防止効果があるようです。
無限に持っているというのが玉にキズかもしれませんが、なにせ百万分の1ミクロンという細さゆえ、やりようによっては体内に仕込むことが可能なので、理屈っぽく考えてもリアリティゼロにはならない設定です。
しかし、そんなことより私が惹かれたのは「二重人格の演出の上手さ」です。
せつらにはふたつの人格があり、特別に酷い外道と接したときや、極めつけの強敵と相まみえたときに非情の魔人と化し、圧倒的な戦闘力で相手を降します。
簡単に言えば“変身”するわけですが、内面だけで行われたそれを、ドラマやマンガで表現するのには、ビジュアルを変えるのが最もわかり易い。
「さんかくはぁと」みたいに山本耕史さんが女装して声優がアテレコする演出でも、充分にドラマは面白かった。
しかし、登場人物のモードが変わっていることを、小説で表現するのは非常に困難なはずです。
それがどれだけシンプルでスマートに行えるかは、作者のセンスによるでしょう。
別人格になっているという説明用のナレーションが多すぎたら、せっかくのインパクトが色あせてしまう。
できれば説明など抜きに、読者に人格が変わっていることが伝わるのが一番だと思います。
菊池秀行さんの秀逸な二重人格演出は、せつらが自分自身を指す一人称の呼び名で、これにはハートを撃たれました。
ふだんのせつらは「ぼく」
非情の魔人と化したせつらは「私」
まさに説明不要の最高の演出ではないかと思う。
私は森田まさのりさんの「ろくでなしブルース」が最初から大好きでしたが、それは連載前の「ばちあたりロック」の前田太尊が“本気で怒ると関西弁”という設定にズキュンと胸を撃たれたからです。
むりやりにビジュアルを変えることもなく、しかし伝わり易い。
BACHI-ATARI ROCK (ジャンプスーパーコミックス)]
これはマンガであるため、セリフの吹き出しと主人公のビジュアルが並んでいることで、そこが関西弁ならマジ太尊という判別をつけながら読めるというわかり易さの後押しもありました。
しかし魔界都市ブルースは小説だからそういった後押しも無しで、それでいて文句なしの説得力があった。
美貌とか、魔法に近い作用をする糸使いとか、とにかくギミック満載で主人公の魅力を押し上げる。
菊池秀行さんには人気シリーズが沢山ありますが(ほぼ読んでいないくせに偉そうですが)、おそらく人気投票をした場合は秋せつらがトップなのではないかと思います(違うかな)。