「総理に腹が立ちすぎて、つい言葉が過激になる」というネットのコメントを目にしました。
たしかに、使われている言葉はその方の感情を反映したと思われるキツいものでしたが、最初の「断りの一言」があったことや、文章構成の質などから一定の品が感じられたので、気持ちが伝わってくるものではありました。
私は今から3年近く前に『悲鳴の際に敬語を使う人間はいない』という主題で記事を書いたことがあります。
政策のマズさによって経済的に追い詰められ、危機的状況になる人がこれからも増える前提で書いたものです。
「#自民党に殺される」みたいなハッシュタグが盛んに立っていた頃ですが、あれは誹謗中傷や煽りの意味だけでなく、悲鳴として発している人もいるはず、ということをテーマにしていました。
美しくない言葉と受け取られるはずなので、それに対して「品性がない」などと攻撃する人も多いはずですが、批評している人もいつ『悲鳴組』に転落するかわからんぞ、との警告も含んだ内容です。
・・で、あれから3年経ち、転落者も増えたことでしょう。
いつの間にか、自分の足裏が地獄の地についてしまっていることを知り、慌てて地上への移動を試みている人も多いのではないかと思う。
3年前なら「ただの悪口」と受け取られた文脈が「怨嗟」に格上げ(?)されて、ある程度受け入れられる状況になっている気がしませんか?
逆に言えば、我々の生きている場所が格落ちしているともいえる。
”全体の奉仕者” たる公務員の実力不足では?
ちなみに ”公務員” という言葉には議員や首長も含まれるのが人事院の見解です。
「怨嗟」はさらに加速するでしょうね。
それも、今よりもさらに正当性をもって。
ああ、レベルダウンだ・・