食べ物を口に含んだときの「感じさせられる味」と「見つけに行かないと感じられない味」の種類の違いについて、どんな印象をお持ちですか?
『隠し味』に気づける能力
ひそかに使われている隠し味を言い当てて作った相手が驚き、お互いに嬉しくなる経験は多くの方がお持ちでしょう。
言い当ててドヤ顔することもあるはずです。
この「隠し味を当てる」くだりは美味しんぼなどのグルメ漫画でよく描かれますが、あれに憧れる方も多いでしょう。
こういうのは明らかに「見つけに行かないと感じられない味」です。
カンタン、らくちんな『感じさせられる味』
一方、私たちはどちらかといえば「感じされられる味」のほうに慣れ親しんでいると思います。
最初から強い味付けで作られていたり、美味を感じる配合で化学的に作られる食物のほうがたくさん出回っている。
だからこそ「素材の味が感じられる」なんていう言い回しがカッコよく思えたりもするわけで・・
ただ、毎回素材の味を口の中で探しに行って味わう食べ方は、一般的な生活の中では結構ハードルが高そうです。
都会地で暮らしているとなおさらそうでしょう。
美味しいものが好きなら『舌のボケ』だけは絶対避けたい
簡単に買ってさっと食べられる加工食品では、最初から消費者の好みに合うような調整がされていて、そういう食品に囲まれて生きていれば、一日の食事の殆どが「感じさせられる味」にどっぷりと浸っていることになるのは仕方ありません。
そういった食事を続けていると「舌が麻痺する」なんて言われることもありますが、厳密には「味覚を追う習慣が薄れる」といった感じで、味覚の生息領域を自分で狭めるクセがついてしまう状態のことではないかと個人的には思っています。
ただ、使わない機能が退化してしまうのは人体の性であり、その部位が『脳』であると、そして年齢がそこそこ行っていると『ボケ』になってしまうのが恐ろしいところ。
味を追求する舌はボケない
美味しんぼに登場する栗田ゆう子のおばあちゃんは、家族の顔もわからなくなるほど痴呆が進んでしまったにも拘わらず、昔おじいさんと食べた美味しい水炊きの味を再現した山岡によって、一挙にボケが治ってしまう。
若い頃に食べた、針の穴を通すような「最良の一品のこの味」を覚えていたからこそ成し得た復活だったと思われます。
あれがもし「なんとなくこのあたりの味」に慣れ親しんだ人だったら、求めるものが比較的簡単に再現できるかわりに、劇的な回復も望めそうにありません。
しかしゆう子のおばあちゃんは、どんなに有名店の美味な水炊きを食べさせても「こんなのは水炊きとは言わないよ!」と激しく罵るほどの味覚を培ってきたからこその逆転劇だったのでしょう。
ご都合主義なストーリーという見方もありますが、『味覚のボケ』を全くしていないこのおばあちゃんは、味覚ボケしやすい我々の食事情に対する気づきを提供してくれる話ではあります。
口に含んだ食物の中から『味をさがす』という感覚は、私は昔から持っているのですが、この言葉が当意即妙に出てきて共感できる人にはほとんど出会ったことがない。
この感覚について、しばらく掘り下げてみるつもりです。