【感情会計】善意と悪意のバランスシート

善と悪の差し引き感情=幸福度

司馬史観への微かな抵抗②〜その無防備さはおかしいだろ、芹沢!

数多の読者の心をわしづかみにした司馬文学の文体。

 

会計学者の田中弘さんは司馬さんの作品がお好きで、ご自身の著作でもそのことに触れ、「司馬さんの『枯れた文章』に憧れていて、自分もあのような文が書けるようになりたい」と仰っていたことが、強く記憶に残っています。

もう20年ほど昔のことです。

 

それ以来『枯れた文章』という、わかるようでわからない言い回しを、私も追い求め続けています。

 

と言いつつ、前回に引き続きその『枯れた文章』に挑んでみましょう。

 

 

【自分を殺害しようとする敵たち】と枕を並べて眠れるか?

新見錦切腹が文久3年の9月5日(または6日)ということは前回にも触れました。

 

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『燃えよ剣』では、ここで土方が煽りに煽って芹沢一味と交戦状態になった、という ”司馬演出” についても前回書いたとおりです。

 

芹沢襲撃という「決戦」は9月の18日ですから、土方の宣戦布告からこの日に至るわずか十日余りの間、両陣営の緊張は甚だしく、戦意はおそらく最高潮を保っていたことと思われます。

双方、敵が次に何を仕掛けてくるかわからないし、それが命のやり取りになることも充分に想定内でしょう。

 

芹沢と近藤は「同居」していたのか?

近藤一派と芹沢一派が、八木源之丞宅を宿所にしていたことは、私のブログでも散々書いてきています。

 

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では、抗争が命の奪い合いにまで激化した敵組織同士が、一般家庭の同じ屋根の下で普通に暮らしていたのか?

 

・・というとそんなわけではなく、この時期には八木家の東隣にある前川家が、新選組屯所になっています。

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八木源之丞さんの息子の為三郎さんによると「近藤や土方は、大てい前川方へ泊っていたと思います」ということですから、すでになんとなく芹沢と近藤は居を別にしていたことがうかがえます。

 

ここまでなら、司馬史観に基づく『芹沢と近藤の派閥抗争』にはそれなりの説得力がある。

 

そして『燃えよ剣』では、この火蓋を切られた戦いは、冷徹な土方の襲撃計画に沿って事が進み、必殺の一刀を芹沢に突き立てた近藤によって終焉を迎えるまで、ドキドキする筆運びで実行されます。

 

そうなると当然ですが、気持ちが盛り上がっている読者にとっては、多少の矛盾や疑念などは吹き飛んでしまいます。

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以前も書きましたが『燃えよ剣』における ”最強” とは天然理心流でもなければ薩長の新式兵器でもなく、ただただ ”土方さんのお気持ち” なので、それを主題にする司馬文学の中に浸っている読者には、抗う術がありません。

 

しかし、9月18日の芹沢襲撃のことを『新選組遺聞』での八木為三郎さんの言葉をもとに考えると、どう考えてもおかしな点が見えてくる。

 

無防備ぶりが異常な芹沢鴨

八木為三郎さんは日記を付ける習慣があったようで、昭和3年に子母澤寛さんの取材に応じたときにも、当時の記録を確認しながら答えている様子が見てとれます。

ゆえに、70過ぎの人が、はるか昔のおぼろげな記憶に頼っているのとは、明らかに一線を画している。

 

為三郎さんの述懐によると、新選組が居着くようになってからは夜中に出入りする者も多かったことから、玄関の雨戸を閉める習慣が無くなり、いつでも開け放してあったそうです。

 

玄関の障子を開ければ、いとも簡単に屋内に侵入可能だったということですから、当時の一般的な屋敷の事情に照らしても、戸締まり無しと言って過言ではないでしょう。

実際、襲撃前に芹沢の様子を窺いに来た土方らしき男は、やすやすと八木家に忍び込んで奥の間の唐紙を開け、芹沢の寝床の位置を確認していたそうです。

 

暑い時期であり、芹沢の部屋の唐紙こそ締めてあったものの、それ以外の部屋の唐紙は開け放っていたそうです。

 

だから玄関口の様子は部屋の中から見ることができ、為三郎さんの母上である「まさ」さんは、寝床から土方の様子を目撃しています。

 

ここからわかるのは『芹沢の本陣は立ち入りフリー』で、寝ている時さえそれは変わらなかったということです。

 

オイオイ、【自分を殺害しようとする敵たち】が東隣の前川家でお前の命を狙ってるんだぞ、と。

いくら芹沢が豪胆な男だったとはいえ、さすがにそんな無防備でいるか?

 

司馬文学の筆の勢いが、わかりやすく弱まった瞬間

じつのところ司馬さんも「土方の宣戦布告シーン」以降の、そのへんの事共については筆が鈍い。

 

その夜からかれらは復仇を企てるべきだったが、別の道をえらんだ。酒色に沈湎した。芹沢の乱行は、以前よりひどくなった。

 

この文に続いて菱屋のお梅を我が物にした話へつなげているのですが、濁している感じがハンパない。

 

匕首を抜いて構えている相手に、わざわざ両手を上げて無防備な脇腹を晒すようなことをする芹沢だったとすれば、それは無能の極みです。

 

初めてこの小説を読んだときから違和感をおぼえていた点ではあります。

さすがにそんなわけないだろ、と。

 

そうはいっても当時(平成7年頃)のネット環境は今とは比較にならないし、他に資料となるような文献にあたる機会もなかったので、それなら「いっぱい調べて書いている司馬遼太郎」に乗っかったほうが楽だし、なにより作品が面白いので納得もしやすい。

 

少なくとも ”私なりの司馬史観”  はこの繰り返しで作られた気がします。

 

子母澤寛さんの『新選組遺聞』は昭和3年に刊行されているから、『燃えよ剣』よりはるかに昔から存在しているわけで、「同じ頃にそれを読んでいたらなぁ・・」と思いますが、今からでも遅くはない。

司馬史観を剥がしていく作業を、引き続きやっていきましょう。

<続く>