さて、昼休みに会社で出前のラーメンを食べたあと、近くの中華ソバ屋で焼飯と野菜スープを平らげ、そこでようやく腹がふくれた朝倉哲也
<そのシーンの説明記事はこちら⇩⇩⇩>
真面目な経理部員の仮面をかぶっている朝倉は、とにかく目立つ行為は避けています。
本当なら、いつもの安ラーメンを食べたあと、わざわざ別の店に行って超大盛りの闘魂チャーハンや、優勝力士用の大杯で野菜スープを飲んでいる姿など、同僚には絶対に見せてはならないはず。
(闘魂チャーハンと大杯の野菜スープは、私の脚色《妄想》です)
数字に厳しい大藪作品の真骨頂
私は『蘇る金狼』の中でも特に、この 11月17日(月)の昼食のシーンが好きです。
同僚たちと一緒にランチを食べ、どうもまだ空腹感が残っているからと、独りでコッソリ近くの中華屋へ入ったサラリーマンが、一心にメシを掻き込んでいる姿に、何とも言えないリアリティを感じます。
そしてもうひとつ、このシーンで気になるのは時刻です。
原作では、裏通りの中華ソバ屋で料理を食べ終わった朝倉は、店員に100円玉を渡して仮眠させてくれるように頼みますが、その時の記述がこれです。
一時になる五分前に起こしてくれと言い置くと、テーブルに顔を伏せて眠りに落ちた
そして、約束どおりに揺り起こされた彼は、店を出て勤め先のビルの5階にある経理部の部屋へ戻ります。
三十分にも満たない仮眠ではあったが、効果はてきめんであった
大藪春彦さんの『蘇る金狼』の特徴のひとつとして”数値の明瞭さ”があります。
12時55分に店員に起こされた朝倉は、二十数分間の仮眠を取ったことは間違いないでしょう。
これがもし10数分だったなら、大藪さんは「二十分にも満たない仮眠」と描写するでしょう。
そして、もしも20分台前半ならおそらく「二十分あまりの仮眠ではあったが、効果はてきめんであった」と書かれていたと思う。
ここでは「三十分にも満たない」と表現しているので20分台の後半だったでしょう。
ミッション・オブ・ハードボイルド①:12時半までに完食せよ
忙しい朝倉に、できるだけ時間を与えてあげたいので、仮眠時間は25分と仮定します。
ということで、12時55分に起こされたことと、25分間の仮眠ということからひとつの結論が導かれます。
朝倉は、中華ソバ屋で12時30分までに焼飯と野菜スープを食べ終わっていなければならない
俄然、時間との戦いの要素が加わってスリリングになってきます。
ミッション・オブ・ハードボイルド②:パシリは上司に押し付けろ
朝倉が勤める東和油脂の経理部では、正午になると外食する社員と、朝倉のように店屋物を取る社員に分かれます。
12時のベルが鳴り、外食組が部屋を出たあと、残った5、6人に対して係長の粕谷が注文を集めて回ります。
この習慣には色々と疑問が湧きます。
居残り組5~6人のうち、同僚の石田がいることは記述されていますが、その他の構成メンバーはわかりません。
しかし、少なくともヒラの朝倉や石田にとって、係長の粕谷は上司にあたる。
粕谷はメンバーの注文を集めるだけでなく、店に電話して発注までしているようです。
定年近い年齢で優しい粕谷は、こういう役回りを好んでやっているだけかもしれませんが、「君は例の奴だね?」と上司である粕谷に問われた朝倉が、平然と「ええ、ラーメンにしときましょう」など、どことなく上から目線な対応をしているあたり、違和感がぬぐえません。
ミッション・オブ・ハードボイルド③:オーダーは瞬足で済ませよ
問題なのは、おっとりした粕谷が、受発注業務(パシリ行為)をスピーディーにこなす期待があまり持てないことです。
物語の2日目(11月10日)のシーンで、東和油脂経理部には約30人の部員がいることが分かっています。
そしてこの昼食の注文は、居残り組以外の全員が部屋を出たあとで行われることは、はっきりと描写されています。
正午のベルが鳴るやいなや、外食組の全員がF1レースのスタートのように部屋を飛び出したとは思えないので、彼らはそれぞれ自分のペースで出て行ったでしょう。
ゆえに、外食組が三々五々に部屋を出てから、粕谷が注文電話を終えるまで、3分程度はかかったと思われます。
客である粕谷が注文をまとめて電話している理由は、店側の事情です。
「出前が人手不足なので」ということが、文中ではっきりと明記されている。
調理人が足りないとは書かれていないので、作るのは早いかもしれませんが、多少のロスは避け得ないようです。
店側が午前中の注文を受け付けないのか、東和油脂経理部が社員に対し、店屋物の注文をする時間すら与えないのか定かではありませんが、12時になってからすべてが開始されるこの制度そのものにも疑問を感じます。
ミッション・オブ・ハードボイルド④:届いた丼は瞬息で受け取れ
朝倉たちが勤める東和油脂の経理部は、親会社の新東洋工業が所有するビルの5階にあります。
注文を受けた店が5~6人前の調理を仕上げて器に盛り、さらに岡持ちへ詰め終わるまで5、6分はかかっているとします。
出前持ちが足りないという店側が、中身を詰めた岡持ちをすぐに持って出られる保証はありませんが、昭和41年にはホンダのベンリイなども普及している。
会社までのレスポンスタイムはせいぜい1~2分といった程度でしょう。
粕谷が注文の電話を終えたのが12時3分として、12時10分には新東洋工業ビルの玄関へ到着できるとします。
11月9日のシーンで、仕事が終わった朝倉たちが席を立ち、3分後に会社のビルの玄関から出た描写がありますので、出前持ちが玄関前から5階の経理部へ到着したのは12時13分。
部屋へ入った出前持ちは、入り口近くの台かテーブルに器を置いていく。
または、待ち構えた経理部メンバーが岡持ちに群がって自分の注文品を取り出していく。
朝倉がラーメンを受け取り、席へ戻って食べ始める時刻は12時15分とします。
彼は、残り15分で裏通りの中華ソバ屋へ行って焼飯と野菜スープを注文し、それを食べ終わらなければ、店員に揺り起こされる12時55分の時点で大藪流の「三十分にも満たない仮眠」を取ることはできません。
突然のカットインコラム:眉村卓の『食力』
『ねらわれた学園』で有名な作家の眉村卓さんは、かなりの大食いだったようです。
家で奥様に「焼きそば作るけど、何玉がいい?」と訊ねられた眉村さんは「5玉」と答えます。
いざ2人で食べ始めると、あっけないほどすぐに無くなってしまい、違和感をおぼえた眉村さんは「これ、何玉使ったの?」と奥様に訊ねます。
奥様は「5玉よ」と答える。
調理前に夫から聞いた「5玉」のリクエストは、当然”二人で食べる量”と思った奥様と、「ボクの分は5玉」と告げたつもりの眉村さんとのコミュニケーションミスです。
かけうどん1杯を13秒で完食する『食スキル』
眉村卓さんとは、旺盛なる『食力』の持ち主だというエピソードを紹介したところで、本題に入ります。
眉村さんはかつて友人たちと「掛けうどん1杯を何秒で食べきれるか?」という話題になった末、自らやって見せたそうです。
啜り上げた熱々のうどんを口の中でいなして飲み込むまでの間に、次のうどんを箸で持ち上げて空中で揺らし、少しでも冷ましておくという高等技術を駆使しつつ、1杯完食に要した時間は13秒と書いてあった。
(中学時代に書店で1回立ち読みしただけの記憶に基づいて書いているので、若干曖昧ではありますが、13秒という数字は間違いないと思います)
偉大なる記録を打ち立てた眉村さんではありましたが、急ぎ過ぎて味がわからず、食事が楽しめなかったと言って、以後同じ食べ方は一度もしていないそうです。
ミッション・オブ・ハードボイルド⑤:出前ラーメンは40秒で完食せよ
朝倉が猫舌でないことは、彼が「舌を焦がすほどのバターコーヒー」を飲んでいた記述から明らかです。
<その記事はこちら⇩⇩⇩>
彼が本気を出せば、ラーメン1杯程度は13秒で液までも残さず完食するでしょう。
(ラーメンのスープを『液』と表現する大藪春彦的世界観に敬意を表し、ここでも『液』と書きました)
しかし、味が全くしないのはさすがのハードボイルド朝倉でも閉口するでしょうから、せめて眉村卓さんの自己ベストの3倍くらいの時間は使い、ゆっくりと食を楽しんでもらいたい。
およそ40秒でラーメンを完食した朝倉が席を立って、経理部の前の廊下に器を置いて歩き出したのは、ラーメンを自席に運んでから1分後、12時16分とします。
ミッション・オブ・ハードボイルド⑥:同僚の目を避け中華ソバ屋へ潜入せよ
3分でビルの外へ出た彼は、まっすぐに裏通りの中華ソバ屋を目指す。
12時55分に起こされて13時までに経理部の部屋へ戻れるということは、中華ソバ屋は会社のビルから2分以内の場所にあるはずです。
同僚に見つかり「朝倉くん、12時20分くらいに裏の中華屋へ入って行ったよ」などとチクられたくはない。
人目を避けるのにちょっと回り道をしたかもしれませんが、とにかく12時21分には目論みどおり中華屋へ入店。
残り時間はたったの9分。
朝倉のハードボイルドたるゆえんは、きっとこのあたりでしょう。
『蘇る金狼』の数あるヤマ場シーンのひとつです。
※個人の感想です
ミッション・オブ・ハードボイルド⑦:『眉村流』を発動せよ
先ほど、会社へ出前を持ってきた店は「出前持ちは人手不足だが、厨房の人手は充実している」という設定にしました。
しかし、朝倉が飛び込んだこの裏通りの中華ソバ屋では、その辺の詳しい描写はありません。
そこで、ここでも同様に調理は素早いとします。
今度は器に盛ってすぐに出せるので、朝倉が注文した焼飯と野菜スープは4~5分で彼の前に出されたとする。
(このときに出てきた料理の分量は⇩⇩⇩こちらの記事で考察しています)
12時21分に入店し、店内の席についてオーダーするまでのロスタイムを含め、6分程度かかったとします。
時刻は12時27分
残り時間は3分しかありません
このときこそ、眉村流食事法が発動したに違いない。
闘魂チャーハン(私の独自解釈)と大杯の野菜スープ(同左)を、いずれも飲み込むように食し「チャーハンは飲み物、野菜スープはもちろん飲み物」を地で行く朝倉は、山のようなチャーハンを1分、野菜スープも余裕で1分、計2分ですべてを平らげ、残りの1分で店員にチップを渡して交渉し、12時30分には仮眠に入ったと考えられます。
おそるべし、朝倉の”ハードボイル道”
整いかたがハンパないぞ!
こんなにも手に汗握る、スリリングなハードボイルド作品を楽しみたい方は、是非こちらを購入してお読みください(絶対違うケド・・)