【感情会計】善意と悪意のバランスシート

善と悪の差し引き感情=幸福度

【自宅療養】発作が起きても「自助」でなんとかするしかない(後)

コロナ自宅療養時に「怪我」「別の病気」はスムーズな医療措置が受けられない危険があるので絶対に避けるべき、と警戒していたけれど、『既にあったコロナによる症状の激変』は盲点だった。

 

それでも、呼吸障害など『肺の症状』ならば自分でもすぐに分かるし、助けを求める際の説明もシンプルで済む。

 

病院や保健所で連絡を受けた相手にとっても想定内の言葉が並ぶだろうし、単語を聞いただけで次の行動をイメージしやすい。

(実行できるかどうかは別として)

 

しかし、猛烈な頭部不快感発作などという不確かな症状など、医療関係者だって首を傾げると思うし、なにより自宅で苦しんでいる私自身が、これを『発作』なんていう大それた発想には至っていない。

 

(でも死が頭をよぎった・・、しかしそれは衝動による副次的な行為の結果に分類されるはずで、症状による死亡とはならないと思う。シロウトだからわからんけど)

 

 

未知の病を医療知見のないシロウトに任せてしまう丸投げ? 国民皆保険は?

当時の状況は前回のこちらの記事に書いており、ようするに元々あった重だるい頭部の不快感によって、食事や水分の摂取も阻害され、咳などの症状よりもむしろこちらがメインでした。

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それが突然激烈なものになり、後から考えれば発作といっても過言でない状態になっても、医療知見がない私にはその判断ができず、ただひたすら耐えるしかなかった。

 

それに、これは8月中旬から下旬頃のことですから、感染者数はまさにピークであり、熱中症の救急搬送のピークとも重なっている。

 

コロナの症状が重くなっても搬送先が見つからないケースが連日報道され、不安を感じることが多かったが、いざ自分の身に危機を感じた時には「不安」じゃ済まされない。

 

救急車を呼ぶ前段として頼りたい保健所などの機関には、いくら電話してもつながらない現実は、すでに嫌というほど経験済みだ。

 

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「自宅療養じゃなくて『自宅放置』だ」と叫ぶ声はSNSなどに蔓延していますが、それが決して言い過ぎでないことは私も今回のことで身にしみました。

 

仮に保健所に助けを求めたとしたら・・

私は結局この「発作」を、保健所には告げなかった。

 

前回記事にも書きましたが、医療知見のないシロウトの私が「発作が起きて・・」などと言ったところで、相手がそれを信用するとは思えない。

 

説明するには言葉数を要するし、相手の経験や感性が私と一致しなければ、途中で何度も軌道修正のための会話を挟まなければならない。それも苦しい息の下から。

 

患者の訴えは、一旦「報告事項」に集約されるはず

仮に、私と話した保健所の担当者が、旺盛なる想像力を働かせて一定の理解を示してくれたとしても、その人が医療措置を決定するわけではない。

当然、エスカレーションのために「文章に起こして報告」となる。

 

死にかけみたいな私の発言を、そのまま書いたってまともな言葉にならない。

 

ゆえに、話を直接聞き取った保健所の担当者は、それを他者に伝えるために、端的にまとめる作業が必要になる。

 

報告書を読むのは直接顔を合わせる(であろう)上司だけではない。

病院など他の機関へ伝わる際には、顔を合わせて表情や身振り手振りを加えるわけにはいかない。

 

報告書の文面だけを読む人にも伝わるほど端的にまとめなければ、報告書の体をなさない。

ならば当然、具体的数値を含む箇条書きに落ち着くのではないかと思う。

 

「体温は35.8度。激しい頭部不快感を訴えている。会話中咳き込むことはあるが、呼吸ができないほど激しいものではない」

 

私の苦しさは、この程度の平たい、説得力のない内容に仕上がりそうだなぁ・・

 

「自宅療養」とは事実上、「医療から引き離す」に思えてくる

今、医療従事者にとって最優先する状態とはおそらく「自力呼吸で必要な酸素摂取ができなくなっている患者」でしょう。

 

そしてそれは「血中酸素濃度」という極めて定量的なエビデンスに基づいて判断されるはず。

 

ゆえに、”頭部不快感”などという概念的、定性的な条件で救急車を出すなど、ちょっと考えられないことです。

 

生活保護申請では「担当者を言い負かす力量が必須」というが、コロナの医療措置要求でも同じ?

上でも少し書きましたが、『発作』ということに考えが至らなかった私は、仮に保健所の担当者に助けを求めたとしても、そのワードを使うことはなかったでしょう。

 

そもそも、初めてその状態になったときに『発作』という定義を当てはめて判断できるのは医療従事者や、同じ症状で豊富な経験を持つ患者やその家族などだけでしょう。

 

ここで私が「発作が起きてるんです」と主張したとしても、電話の向こうの保健所の人には、信ぴょう性の判断はできない。

 

むしろ「経験も知識もない人が、いきなり『発作』と決めつけるのは怪しい」と思うほうが自然です。

 

それに、コロナによる自宅療養で『頭部不快感の発作』というのは、別の理由による症状と判断されてもおかしくない。

 

すると、対応するのはコロナ医療じゃない医療従事者ということになってしまうが、なんといってもコロナ患者ゆえ、受け入れなども含めてややこしいことになるのは目に見えている。

 

純粋に呼吸障害などですら入院を断られるほど狭き門のようですから、コロナ自宅療養というのはむしろ「できるだけあらゆる医療から遠ざける方針」と勘繰りたくもなってきます。

 

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結論

こんな文を書いているわけですから、当然私は苦しさから脱しました。

狂い死にを警戒するほど危険を感じた2日目の発作が峠だったらしく、そこを越えた以降は激しい呼吸やうめき声を発する状態にはならなかった。

 

とはいえ、重苦しい不快感は依然残っているので、自宅療養期間が終わってからも、数日間は外に出るどころではない。

 

療養期間は終わりということで保健所からの連絡もなくなり、報告の必要もなくなったためか飲まず食わずに拍車がかかり、エアコンをかけてはいるものの、水分を摂らなかったのでそれも危険だったかもしれない。

 

お腹周りからはゴッソリと肉が消え失せ、自分でも気味が悪い外形へ変貌。

毎日のウォーキングでさんざん鍛えた足腰の筋肉もすっかり落ちてしまいました。

すぐに鍛え直したい意欲はあれど、倦怠感やめまいが邪魔してそれもままならない。

 

徐々に回復しているとはいえ、今はそのような状態です。

 

ワクチンを打っても軽症があり得るなら、やっぱり怖い

「ワクチンを打てば、高確率で重症化は予防できる」

しかし、高確率で感染を予防できるとは言われていないので、感染し、軽症にはなりうるということは否定できないでしょう。

 

「軽症なんて大したことないだろうし、まあ安心だろう」

いや、私は軽症にすら絶対になりたくない。

 

「この苦しみから開放されるためには、ベランダから飛ぶことだ」と、それこそ発作的な衝動に駆られ、いざ実行に移そうとしても、即座にそれを止められる人がいないのが自宅療養。

 

まあ、全く同じ症状の人がいるのかどうかわかりませんが、こういった類いのリスクを負った人が、全国に万単位でいる(というか、政府がそのように計らった)。

 

軽症から重症化して死亡すると報道されることがあるが、軽症で苦しみ、その後の後遺症が大きくクローズアップされる報道はほとんど見ません。

それよりもワクパスによる分断のほうに、世間の関心は集まっているようです。

 

「自助」で防げなかった感染だが、せめて感染した場合の過度な自助を要する状態だけは絶対に避けるよう、政府の措置を望んでいます。

 

総裁選の駆け引きに妄執している様子を見ると、期待はできませんが・・